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話題の自民党憲法案とその批判について、妥当性を考えてみる

自民党の改憲案がヤバいと随所で話題のようである。改憲案と対照表は自民党のHPにあるので、それを参照しつつ、ネットで見かけたいくつかの批判とその妥当性について考えてみたい。

まず、多くの人が誤解している点だが、憲法、特に人権の部分、については、憲法に書かれている一字一句というのはそこまで重要ではなく、むしろその文言の上に積み重ねている解釈や判例の方が圧倒的に重要である、ということはきちんと意識しておくべきである。要するに、憲法からある表現が消えたり、表現が変わったりしたからといって「この権利が保障されなくなってしまう」などということは全くない、ということである。
具体例を挙げよう。現行憲法には「第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とある。一方、憲法のどこを見ても「プライバシーの権利」は出ていない。なので、憲法を字義通りに読むならば、プライバシーを侵害するような表現もまた、表現の自由として保護されることになる。だが実際にはそのようなことはなく、幸福追求権等の曖昧な表現にさまざまな解釈を重ねることで「プライバシーの権利に反するような表現の自由は認められていない」という結論を導くわけである。この状況を知らずに「日本の憲法にはプライバシーの権利が規定されていない。なんて問題なのだ!」と騒ぐのは、憲法の勉強が足りないだけである。
プライバシーの権利だと当たり前すぎて上記のような騒ぎは起きないが、もう少し複雑な問題になると簡単にこのような誤解をしがちである。

では具体的に見てみよう。

■第十八条から『奴隷的拘束』が消えた!これは徴兵制への布石か!?
これはよく見かけたコメントだが、かなりの程度誤解に基づいている。まず現行憲法と改正案を見てみよう。

(現行憲法)
第十八条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

(改正案)
第十八条 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

確かに、文言として「奴隷的拘束」という語はなくなっている。しかし、通説の解釈は「奴隷的拘束の禁止」は「強制労働や人身売買を禁止すること」を意味しているのであり、改正案は表現を明確にしたに過ぎない。憲法の教科書を見ても同様の内容が出てくる。
一方「徴兵制を現行憲法が禁じている」と言われる際の論拠になっているのは、その後ろの「意に反する苦役」の方である。そして、その部分は改正案でもそっくりそのまま残っている。だから、「徴兵制への布石!」というのは藁人形論法に近い。

■「公益及び公の秩序」で人権が制限出来てしまう! ?
これもよく見かける批判だが、そもそも「公共の福祉」と「公益及び公の秩序」がどのように違うのか、という論拠を見ると、ほとんどの場合各論者の勝手な想像に基づいているだけであり、具体的に学術的な論拠を持ちだしているものは皆無である。それもそのはずで、そもそも「公共の福祉」自体が、「公共」や「福祉」という文字を一生懸命睨んで意味を見つけたのでは全くなく、これまでの法運用や解釈、判例の積み重ねによって、人権が制約される状況として妥当と思われるところにその内容を確定させてきているものである。だからその位置付けは文言が「公共の福祉」だろうが「公益及び公の秩序」だろうが何の代わりようもない。

■天皇が元首になっているが・・・
現行憲法では確かに元首の規定はないが、しかし対外的には天皇はすでに元首と認識されている(例えば英語版ウィキペディア)。なので解釈上の天皇の地位が現行憲法から変わることもないし、「呼び名の変更」以上の意味は持たないであろう。
このタイプは、他に「自衛隊を軍と認定する」話もそうで、日本国内でいくら変な呼称や理屈をひねり出したところで、対外的には自衛隊は軍以外の何物でもないのであって、「国防軍か自衛隊か」みたいな論争は各人のネーミングセンス以上には意味のない議論である。

■天賦人権説を否定している!これはキチガイの沙汰だ!
これもまたよく見る批判である。確かに現行憲法は天賦人権説の形式をとっており、一方改憲案ではそういうスタイルはとっていない。だから「人権を天賦人権説以外で説明しようなどというのはトンデモだ!」と言う人は多いようだが、それは政治哲学、特にリベラル・コミュニタリアン論争以降の学術状況をよく勉強していないだけである。
ロールズのリベラリズムやノージックのリバタリアニズムは、まず一切のしがらみを欠いた抽象的な「人間」の存在を想定し、それがアプリオリに「権利」というものを持っていることを仮定する。このような想定に対してコミュニタリアニズムの論者は、そうした想定は非現実的であり、実際には個人は歴史性を帯びた共同体の中で生きるしかなく、「人権」や「正義」もまたそのような個々の共同体の歴史性の中において位置づけられるべきであると主張する。コミュニタリアニズムの立場を取るのは、白熱教室で巷でも有名になったサンデルなどがいる。
もちろんリベラリズムやリバタリアニズムの立場からは、コミュニタリアニズムへの反論も行われており、この論争には到底決着がついたと言える状況にはない。しかし重要なのは、人権が「人間ならばアプリオリに認められるような普遍的なもの」なのか、それとも「個々の共同体の歴史に沿う形で形作られたもの」なのかで深刻な論争が行われているということであり、どちらか一方が自明に正しいようなものでは全くないということである。天賦人権説のような「アプリオリな普遍的人権」の立場にも一定の理はあるが、それがすべてではない。それをすべてだと勘違いし、それ以外の立場を「キチガイじみている」「トンデモだ」と貶めるのは、己の無知と偏狭さを知らしめているだけである。

■国家緊急権が規定されている!危ないのではないか
改正案で新設された項目に国家緊急権がある。これは非常事態の権限を規定したものであり、悪用によって独裁への道を開いてしまう可能性をも秘めたデリケートな部分である。実際にこの悪用で独裁への道を歩んだ国家もあり(例:ナチスドイツ)、慎重に考えるべき部分である。
ただし、単純に「国家緊急権が規定された、危ない」というのは安直である。他国の状況を見ると、憲法に国家緊急権が規定されている国は、ヨーロッパだとフランスやドイツ、スウェーデン、他にはインド、ブラジル等多数存在する。傾向としては、大陸法系では国家緊急権の規定を置く国が多く、英米法では規定がない国が多い。では日本はというと大陸法と英米法どちらの特徴も備えており、あってもよいしなくてもよい、という程度にしか言えない。だから「規定しなければならない」も「規定するのはおかしい」もともに短絡的に過ぎると言えよう。
重要なのは規定の中身であり、議論するならばこの中身の精査が重要であると考えられる。

「では自民党改憲案は素晴らしいものなのか」という疑問もあるかもしれないが、それについては何とも言えない。解釈が揺れている部分についてそれを確定させた部分も存在する(外国人参政権、政教分離等)し、制度規定の部分についてはその詳細についていろいろと議論するべき点も多数存在する。こういった点をきちんと議論して深めていくのは大事なことだと思われる。
しかし、ここで取り上げたような短絡的な、ないし誤解や無知に基づいた批判は、議論をするというよりは相手を「議論するにも値しない」と思わせるようなレッテル貼りに終始している側面が強い。こうした手法は議論をするというよりは、憲法の問題を「敵/味方」に二分してどちらにつくか、という罵り合いに近く、議論をするうえで望ましい環境とは到底言えない。憲法が、もっと罵倒でなく堅実な議論の対象となることが望ましい。

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コメント

 「文言の上に積み重ねている解釈や判例の方が圧倒的に重要である」ことと、文言が消えても積み重なっているものが全く消えないということは矛盾しますよね。
 プライバシーの権利を明文化すべきという議論を知らないのであれば憲法の勉強が足りないだけですよね。
 「公共の福祉」だろうが「公益及び公の秩序」だろうが何の代わり「ようもない
」ことは明確な誤りですよね。
 「呼び名の変更」は何から元首への変更でしょう?
 「「国防軍か自衛隊か」みたいな論争は各人のネーミングセンス以上には意味のない議論で」ないことは集団的自衛権行使が可能となることなどから明白ですね。
 「どちらか一方が自明に正しいようなものでは全くない」ものについて人権が狭まる方の説を採るということは人権擁護派からの批判に値しますね。
 「誤解や無知に基づいた批判」をやめてあなたの発言が「堅実な議論の対象となること」を望みます。

投稿: s | 2012年12月 5日 (水) 02時18分

久々の更新ですね、お疲れ様です。
興味深く拝読しました。

実質的に意味が変わらない改正ならばなおさら、アヤシイ政治的意図を感じてしまいます。自民党の政策からして、単に「自主憲法」を制定したいというだけではないように思われるからです。
また、国民投票法が十分に議論されないまま強行的に可決された過去もありますから、改憲に過剰反応するのも納得できるところがあります。

しかしこの件に関してのネットの意見は確かにヒステリックになりがちですね。

投稿: 苔 | 2012年12月 6日 (木) 17時48分

うむ、公益と天賦の2ヶ所について反論しよう。

『個人』『公共の福祉』を「公益及び公の秩序」に変えることは自由主義を否定し、憲法の性格を全体主義に変える。

さらに天賦人権は自由主義の人権だから、この否定もまた自由主義を否定する。

他には第102条で立憲主義を否定するような文言をいれていたりとか、自民党の改憲案は惨すぎる。

兎に角、悪意に満ちた意図については、実は自民党のHPにある日本国憲法改正草案Q&Aに意図が明記されているのじゃ。

従って「公益」に変えることの危険性、及び天賦人権を否定する事の危険性は、十分に理解した方が良いと思うよ。

それに天賦人権は自由主義の人権だから、自由主義者から見れば天賦人権の否定はキチガイ沙汰だよね。

貴方が全体主義者なら大歓迎だろうけどね?

自民党の改憲案が天賦人権説を否定している証拠
http://uncle2012andy.blog.fc2.com/blog-entry-13.html

残念だけど自民党の憲法改正草案は罵倒するしかないというほどにトンでもだと『自由主義』者の私なら思うね。

投稿: アンディ叔父さん | 2013年1月 5日 (土) 03時01分

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