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朝鮮学校無償化の問題と「教育を受ける権利」の保障

朝鮮学校が高校無償化から外されるという問題が一部で話題のようであり、実際「拉致」だの「反日感情」だのを持ちだしてくるのは全く支持しないし、大臣が一方的に無償化対象に含めるか否かを決められてしまうような制度設計そのものに問題があると思う。しかし、これを「民族・国籍差別」というのはいかがなものだろうか。
そもそも、今回の問題で対象となっているのはあくまでも「学校」であって「人」ではない。国籍が韓国や朝鮮であったとしても、通常の公立高校に行くのならば無償化対象となるし、逆に日本人であっても朝鮮学校に行くとしたら無償化対象には含まれない。なので、ここで問題になっているのは「朝鮮学校という機関が、国が認定し管理している教育機関として認められるか否か」という一点であり、それ以外の部分はあまり関係ない。

このように言うと「教育を受ける権利は各人に認められているのだから、国の認定云々は関係ないはずだ」という批判がありうるのでそれにこたえておこう。そもそも「教育を受ける権利」には「教育を受けさせる義務」が対となって親に課せられているわけだが、なぜこのようになっているかというと、親に一任しておくと「子供を教育にやるよりも、家の畑を耕させた方がいい」といって子供が教育を受けられなくなるので、そういったことを禁止しておくためである。この点を踏まえれば、「教育」の中身を自由に親が決められるようにしてしまうと、「役に立たない座学をさせるより、畑仕事をさせることこそが、真の意味で教育である」などという口実によって、子供の教育を受ける権利が正しく守られなくなってしまうので問題であることが分かる。
では教師や、あるいは地域の人々などで「何が教育か」を決めればいいかというと、そう簡単にはいかない。アメリカで実際に起きている問題として、ある宗教・宗派を熱心に信奉する人々によって運営される学校(要するに教会系列)において、子供を自らの宗教・宗派に染め上げようとする教育を行っている、という事例がある。これに対して政府は、このような状況は子供の教育を受ける権利の侵害に当たるとしてこうした状況を防ごうとしており、議論になっている。ここで起きているのは、自称「教育機関」が「教育」を自分の好きなように解釈することによって、自分たちにとって都合のいいことを教え込もうとする事態である。ゆえに、「教育」の内容を教育機関自身に委ねさせてしまうこともまた問題である。

結局、「教育」の具体的内容は、それが権利として保障されているものであり、しかし子供にはまだ判断能力が欠けていて外部がそれを与える必要がある以上、どこかに教育の中身を委ねてしまうわけにはいかない。そうすると、権利保障の最終的責任者、すなわち国が、それを保障する義務を負っていると考えるよりほかない。具体的には、民主的決定プロセスによってその具体的内容は決定し、しかし民主的手続きはときに多数派に都合がよい内容に偏るので、それによって問題が起きた場合には裁判所に訴える、という方法を取るのが、個別の人ないし組織の恣意性から免れる上では、可能な中では最良の方法であろう。実際、旭川学テ事件最高裁判決において国家による幅広い介入を認めているのは、究極的な権利保障の担い手が国家であるがゆえに、「教育を受ける権利」が阻害されるような事態が現場レベルで生じた際には、それに介入して排除することを国家に認めさせたと解釈できる。それは同時に、国家は国民が「教育を受ける権利」をきちんと享受できているかを監視する義務を負っているのであり、教育の名の下に「教育モドキ」を行う者がいればそれを排除して「教育を受ける権利」をきちんと保障する義務を負っているということでもある。

ちなみに、「教育については教師の方がよりよい判断ができるのではないか」という疑問が浮かぶかもしれない。これについては「教授法(事実レベル)」と「教育内容(価値レベル)」で分けて考える必要がある。教師は教授法には長けているので、例えば「繰り上がりの足し算を理解できない子供」に対し、どのように教えるのがもっともその子供がよく理解できるのか、というような問題に対しては、教師はよい解答を与えられるだろうし、それに対するコンセンサスも緩いレベルでは形成可能であろう。この問題の場合にコンセンサスが形成可能なのは、それが実験による検証が原理的には可能(原理的には、同じ状況の子供が100人いれば、さまざまな教授法が実験できる)であるような、事実に関する命題だからである。ところが「そもそも何を教えるべきか」という問題は価値に関する問題である。ある人は「数学をもっと重視しろ。音楽や美術などいらん」というかもしれないし、ある人は逆に「こんな複雑な数学など知らなくていい。音楽や美術こそ重要だ」というかもしれない。このような問題は専門家だから意見が一致するタイプの問題ではない。政治学者ならば政治的意見は一致するかというとむしろ逆で、一般人以上に激しい対立と論争が起きていることを考えてみればよく分かるであろう。このような価値に関する問題は「当人が自由に決めればよい」という自己決定か、「一定の枠内で皆で話し合って決める」という民主的決定かのどちらかを究極的には取らざるを得ない。しかし教育については、権利主体が子供という自己決定の出来ない存在であるので、後者の民主的決定を経るのが妥当ということになる。これは実際には民主的に形成された政府がその内容決定を代行する形になるわけだが、もし教育内容として妥当性を欠くものを政府が設定したならば、それに対しては民主的なチェックが働くというのが、前に挙げた親や教師が教育内容を決定する場合と状況を異にさせる部分なのである。

以上を踏まえると、結局朝鮮学校に生じている問題というのは、それが各種学校であるために、教育指導要領等の形で通常の一条校のような制約に服していないという部分にあることが分かる。もちろん朝鮮学校は自主的な努力で実質的に問題のない教育を行っているかもしれないし、それらの代わりに知事や教育委員会等の半ば慣習的で半ば俗人的な制約をさまざまに課されているかもしれない。しかし、それは「制度的に権利が保障されている状態」とは異なっている。外国人学校についても一条校同様のきちんとした法的規定を行い、そのうえでそれに基づく外国人学校の取り扱いは一条校と同様にするのが必要なことであろう。

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ちなみに、外国においてその国以外の人をメインターゲットとした学校はどのように扱われているのであろうか。
まず、大学まで無償化が行われている、教育の無償化には熱心といえるドイツを見てみよう。これによると、「外国人に対しての特別な学費負担」は「現地校においてはない」となっている。これは明示的には書かれていないものの、裏を返せば現地校ではなく日本人学校に通う場合には、無償化対象から外されてしまうことを示唆している。
ちなみに外国人だけは「特別な学費負担」が存在する地域も存在する。例えばカナダのケベック州では、外国人であっても現地校に行くことが義務付けられているが、同じ現地校に行っているにもかかわらず、外国人であるというだけで特別な学費負担として「保育園(4歳):2,919ドル、幼稚園・小学校:5,080ドル、中学校:6,352ドル(2008ー09年度)」を支払わなければならない。ちなみに現地の人の授業料は無料である。そして現地校へ行かないと義務教育に違反することになってしまうので、例えばケベック州に唯一ある日本人学校であるモントリオール補習授業校は、授業をすべて土日に行っている。平日に普通の学校として日本人学校に行くという選択肢はそもそも存在せず、平日は現地校に行き、土日は日本人学校に行くという形でしか日本人学校に行くことはできないのである。
このような状況を見ると、日本における外国人の授業料の取り扱いは、世界的に見て異常とまでは言えないと考えられよう(だから望ましいのかはまた別問題だが)

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