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ざらざらした社会に戻れ~『なめらかな社会とその敵』書評(上)

鈴木健『なめらかな社会とその敵』が話題のようである。書評も好意的なものが非常に多い。そういうわけで本書を読んでみることにした。

 

本書の内容を端的にまとめると、近代において人工的に構築された「境界」の存在を批判し、それに対してインターネット網と強力なコンピュータを背景にした伝播的システムを対峙させるものである。さまざまな制度が問題に突き当たり、社会に閉塞感が漂う中で、ウェブを全面的に生かした斬新な社会像の提供ということで、本書の筆致の上手さも相まって世間においては本書の評価が高いのであろう。

 

だが、本書において提供される社会像のほとんどに、私は賛成しかねる。本書の抱える問題点として、大きく分けて三つの点を指摘したい。

 

・虚構と社会的実在
・管理社会と共同体的専制の危険
・社会の複雑性に対する認識

 

・虚構と社会的実在
本書のスタンスの一つに、近代の諸々の産物に対して、それは実際には存在しないこと、その境界は実際には明確に存在するものではないこと、を指摘していくというものがある。個人、責任、国家、社会契約等はその観点から解体される。だが、そういった存在が虚構であること、境界は曖昧なものであること等はポスト・モダン以降すでに散々に言われつくした論点であり、しかも「単に虚構性を指摘するだけでそれが否定できる」わけではないことも既に共通了解のレベルに達している。近代の諸々の産物が作られたのは、まさにそれが一定の有用性を持っていたからであり、むしろそれが虚構であるにもかかわらず長い間自覚的に維持され続けてきたという事実の側にこそ重要な点はある。現在の議論は、その虚構性は自明としたうえで、その意義、有用な点と問題な点を適宜比較し、問題な部分は改良しつつ有用な部分は自覚的に維持していかねばならない、という方向に向けられている。「自然的に実在するものではないのだからそれはなくて構わない」というのは、「法律は人工物だから、それゆえに法律がなくなって構わない」というのがどう見てもおかしな議論なのと全く同じであり、(通俗的な意味での)自然主義の誤謬である。

最も重要そうな部分を見ていこう。筆者は、分離脳実験や意志の遅延実験を例として持ち出し、「人間の自由意志」が虚構であること、それゆえに個人の自由意志に基礎を置く「責任」概念も放棄されるべきであることを主張する(p29~31)。この議論は一見もっともらしいが、脳科学における「自由意志」と、法律において基礎とされる「意志」の概念を混同している。他でもない、分離脳実験を行っている脳科学者自身が、脳科学が提供する自由意志の見地を、このように社会における責任概念に広げていくことを厳しく戒めている。少々長くなるが引用しておこう。

(前略)時計職人が時計を責められないように、脳神経科学者は脳に責任があるかないかを語ることは出来ない。責任を否定したわけではない。人間の行動を脳神経科学の切り口から説明すれば、責任の話は出てこないだけなのだ。なぜなら脳神経科学者は、脳を自動機械として扱っているからである。私たちが時計を罪なしとみなすのは、時計が自動機械だからにほかならない。しかし、別の切り口から人間を捉えれば、責任の有無を判断する余地が生まれる。人間を、実践理性を働かせられる人、と位置付ければいい。時計に責任を問えないからといって、人にも責任がないと考えるのはおかしい。そういう意味では人間は特別な存在であり、時計やロボットとは違うのである。

これはきわめて重要なポイントだ。責任の有無を、脳神経科学者が脳のなかから見つけ出すことはけっしてないだろう。責任とは人が持つ属性であって、脳が持つ属性ではないからだ。責任は道徳上の価値観であり、ルールに従う同胞の人間に対して私たちが要求するものである。(中略)人間はすべて、決定論に従うシステムの一部であり、理論のうえではいつかそのシステムも完全に解明されるだろう。だが、たとえその日が来ても、責任はあくまで社会のルールのなかに存在する社会的な概念であって、ニューロンでできた脳の中に存在するのではない。(M.ガザニガ『脳の中の倫理』紀伊国屋書店p146~147)

「個人の自由意志」も「責任」も社会的に構築された存在である。こうした概念のありようは場合によっては変更されるべきかもしれない。しかしそれは、社会における諸々の問題や状況と規範的な理念とを照らし合わせて判断されるべきものであり、脳を開いて分かるものではない。責任概念の存在する社会と存在しない社会を比較し、後者の方がより望ましいならば確かに責任概念は放棄した方がいいかもしれない。しかしそのようなことはないであろう。責任追及というものそのものが失われたならば、最も得をするのは横暴に振舞う人間であり、最も不利益をこうむるのは泣き寝入りを強いられる弱者である。責任追及がなされないならば悪事へのストッパーは外されたも同然であり、そのような社会が望ましいとは到底信じられない。
この「責任」のような概念は、人々の意味世界の中に存在し、それによって人々の行動に影響を及ぼす「社会的実在」であり、それは自然科学が考察対象とする「物理的実在」とは異なるものである。ある対象が物理的実在であるか否かと、それが社会的実在であるか否かはほとんど独立の問題であり、前者の問題から後者の問題を一足飛びに導こうとするのは端的に誤りである。もちろん現状の責任追及のあり方は非常に問題であり変えるべきだ、という主張はありうる。しかしそこでの論拠は「現状の責任追及のあり方」と「別の責任追及のあり方」を比較して、後者がより望ましい、という形になり、脳の物理的特性から即座に出てくるものではない。

この手の問題は本書では繰り返し出現する。他の例としては、社会契約を実際に行うという提案が第V部でなされている。しかし、ここでもまた社会契約が「規範的存在」であるということがすっぽりと抜け落ちている。なぜロールズが社会契約において「無知のヴェール」を持ちだしたのか考えてみよう。それは、社会契約が「各自の現在の属性や立場に囚われずに正義を考察するならば、全員が同意するはずのもの」だからである。裏を返せば、すでに属性や立場が定まっている現状において「あなたは社会契約しますか」と問うても全く意味はないということである。

逆にこのような「現実の契約」の形で国家を基礎づけようとするのはノージックの立場に近く、実際鈴木氏の提案する構成的社会契約はほとんどノージックのメタユートピア構想そのものである。しかし、ノージックはこのメタユートピア構想を基礎づけるために『アナーキー・国家・ユートピア』で500ページ以上にわたって丹念に論証を経ているのであり、しかもノージックの論拠は「個人の自由と権利(特に所有権)の保障」に正義の基礎を置いている。この論拠は鈴木氏の責任概念批判とは全く相いれないものであるのは言うまでもないし、「各人の自由な同意による契約だからいいに決まっている」などとは全く言えないことはノージックが膨大な論証を要したことからも明らかであろう。結局、社会契約を語りながらも、本書は「正義・規範」の概念がすっぽりと抜け落ちており、なぜ構成的社会契約がいかなる意味で正義に合致するのかは最後まで語られない(少数の成功事例を紹介するのみである)。それは恐らく、これらの概念はすべて社会的実在であり、物理的実在として観測可能なのはただ「実際に契約した」という事実だけなので、そこに基礎を置く以外にないと乱暴にも錯覚してしまったのであろう。

(後半はこちら

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コメント

 私も好意的にこの本を見ることはできませんでした
 特に「正義・規範」の概念がすっぽりと抜け落ちておりという点に完全に同意します。
 小説ならまだしも、一応学術書と呼ばれるジャンルで、形而上学的虚構を形而下学的実像のように見せかけているのだからたまったものではない。
 各章で社会の各側面を[膜]だか[核]だか[網]だかに置き換えられそれっぽい講釈につきあわされるのだが、頭のいい著者の言葉のパズルにつき合わされた気分になり嫌悪感を感じた。
 ひとつだけ作者の言うような社会がいいとすれば、PICSYでこの本の支払いができればと思います。そうすると無料すよね、お互いに。

投稿: 多摩C | 2013年7月 4日 (木) 02時43分

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