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ざらざらした社会に戻れ~『なめらかな社会とその敵』書評(下)

・管理社会と共同体的専制の危険
この点については、他のブログでの指摘もあるのでここでは簡単に済ませよう。
鈴木氏の提唱する社会は明白に管理社会である。少なくともPICSYが機能するためには、人々の経済活動の履歴をかなりの長期間分保存しておかなければならない。こうした問題は現代社会でもすでに「監視カメラの録画保存問題」などで発生している。しかし、これらの問題と決定的に違うのは、監視カメラの映像は、2週間程度の経過の後に消去されることになっているのに対し、PICSYの場合はそれが機能するためには記録は半永久的に保存され続けなければならないという点である。また、PICSYの世界に入らないとそもそも経済活動に参与できず、実質このシステムから離脱できない(筆者は離脱の自由は認めると言っているが、それは現行社会において貨幣を使わない自由を認めるのとあまり変わりないものであろう)。この点は、同じく消費者のデータ管理を行っているAmazon等とも異なる点であり、不満があればAmazonを使わないという選択肢が取れるのとは幾分も異なっている。
「別に経済活動の記録が残っていてもいいじゃないか」というかもしれない。しかし、このように言ってしまうのは、経済活動の匿名性の欠如が自由市場の重要な利点を損なわせているという事実に気付いていないことを露呈させている。例えば自由市場の熱烈な擁護者の一人であるM.フリードマンは、『資本主義と自由』の第一章において、自由市場の利点として「人々の活動を偏見や不当な差別から守ること」を挙げている。具体例として取り上げるのが、アカ狩り時代にブラックリスト入りして表で働けなくなった映画監督たちが、裏でこっそりと映画を作り続け、それを発表出来たという事実である。アカだとして不当に虐げられていた監督の作品であっても、そういう「監督の属性」ではなく純粋に「映画の内容」で判断し、それがよいものであれば何らかの形で市場に出すようにする、それが市場の力であり、人々の自由を守るように働く。もちろん常にこのようにうまくいくわけではないが、このような自由市場の機能もあるのであり、そしてこれが機能するのはその匿名性ゆえだというのは留意されねばならない。別の例としては「バイアティカル証券」を挙げることができる(R・ラジャン、L・ジンカレス『セイヴィング・キャピタリズム』p69~70)。これは資産をあまり持たず、かつ余命の短い人が、自分の数少ない財産として生命保険の受取を証券として取引し、それによって余命を充実したものにするための資金を得るというものである。これも、もし生命保険の主を知っている場合には、その道徳的な引っかかり等も相まって、win-winであるにもかかわらず思うように取引は進まないであろう。この取引を円滑にするのには市場の匿名性が役に立っている。

 

(なお脱線だが、市場の取引がすべて把握可能であるという発想は、先進国の状況しか見ていない論である。世の中には表に挙がって着てさえいない経済活動というものも多く、世界全体でみると、アンダーグラウンドの取引の方が多いという指摘さえある。また、アンダーグラウンドでなくても、片田舎で携帯電話すらきちんと使えるか怪しい地域もまだまだ多数存在するし、そうしたところでの売買を筆者はどう思っているのだろうか。そもそも、電気がないと原理的に物が買えない社会設計とは一体どういうことなのだろうか。)

 

さて、彼の提案する「なめらかな社会」は、上で紹介したブログも指摘しているように、前近代の農村共同体の状況に酷似している。そこでは、明確なトップがいるわけではなく、人々は慣習と強い人間関係の中で生きる。しかし、このような社会が根本的に問題なのは、これらは端的に言うと「空気による支配」なので、異端者に対しては村八分や魔女狩りなどのインオフィシャルな制裁を容赦なく加え、しかも誰ひとりとして責任を取らない、という点である。戦前日本が「空気」に支配されてうやむやのままに戦争に突入し、誰も責任を取ろうともしない状況を丸山真男が「無責任の体系」と称したのは有名である。

結局、共同体的なコントロールにのみ委ねてしまうと、それは「万人が万人の監視者」であるような社会となり、そのような中ではもはや自由の居場所は失われ、出る杭は打たれて「みんな一緒に凡庸である」ような共同体的専制が構成されるのがオチである(このあたりの議論は井上達夫『自由論』に詳しい)。このような社会でいいと言えるのは自分が多数派に回っている時だけであり、これはいじめる側にいるときにはいじめは全く問題とも感じられないのと同じである。いじめが社会問題として認識されている状況で、いじめの類型構造を追認するような社会制度を作るのはにわかに信じがたい。

 

・社会の複雑性に対する認識
さて、いよいよ本丸である。本書では、近代の二分法を「ステップ関数」として捉え、それに対してなめらかな「いたるところ微分可能な関数」を対峙させる(p39~41)。鈴木氏は「複雑な世界を複雑なまま生きる」(p7)ような社会デザインの提唱を本書で行っているという。
しかし、このアナロジーそのものが、鈴木氏が「社会の複雑さ」を捉え損ねていることを如実に表している。関数というのは、定義域に与えられた何らかの値に対し、値域の値を一つ返すようなものである。自然科学においてはこれで記述して問題がないことが大半だが、社会というのはそのような「一対一対応」のマッピングとは全く異なる存在である。ある行為を不正だと批判する、ある人を評価する、そういった単独の行動でさえ「インプット/アウトプット」関係のような、いくつかの評価のためのパラメータを用いれば単純に記述されるようなものではなく、さまざまな状況設定と経験の下で曖昧な形で形成されてくるものである。まして社会の人間関係やそれが生み出す社会諸現象は輪をかけて複雑である。

 

PICSYの設計においては、いきなり貨幣を「社会への貢献度」に筆者は置き換える(p57~58)。「誰がどれだけ社会に貢献したか」を簡単に決める方法など存在しない、というのは、数百年来の社会思想における前提であり、そのようなことが不可能である中でどのように生きるか、ということでさまざまな思想は生まれているのである。「ある人の貢献はこれだけ」と評価出来る前提は、社会というものをあまりに単純化している。
筆者はPICSYを貨幣経済の類似として置き直し、さまざまなPICSYへの批判を「貨幣経済にも当てはまる」としてかわしている(p109~115)。しかし、単純な貨幣に過ぎないのであれば、そもそも「なぜ貨幣の購買履歴が伝搬する必要があるのか」に答えられない。いまどき経済学者でも経済的利益以外にもさまざまな価値も貢献も存在することを認める人がほとんどだというのに、本書の議論は経済原理主義のレベルにまで舞い戻っている。筆者が挙げる例(p58~59)は、たまたま「不誠実な振る舞いか否かと、その仕打ちにより相手が金銭を稼げなくなるか否か」が結びつくような例になっているが、これは全く必然的な結びつきではなく、筆者のロジックだと、堅実なNPOと利益を上げる投資ファンドだったら、後者に金をやることこそが社会貢献と言っているに等しい。これは明らかに自らの定義に縛られて転倒していると言っていいだろう。

 

分人民主主義においても、鈴木氏は「民主主義」を「票集計システム」として捉えているようだが、それは民主主義をあまりに単純化している。まず、民主主義の不可欠な要素に議論とそれによる意見変容の機会の存在があることが見落とされている。多数決というのは、単に最後にどう集計するかという部分であって、議論なき多数決は民主主義とは呼ばないのは政治学の常識である。しかし、分人民主主義は直接投票システムなので、議会のような十分な議論を行う場が奪われている。ネットがあるではないかというかもしれないが、ネットというのは自分の好きな意見しか見ないために、反対意見もきちんと聞いて公平に判断するのには向かないというリスクはつとに指摘されている(例えばC.サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』など)。ちなみにここでの話は、議会制民主主義をとっていてもなお、という話である。現実の民主主義は、このように人々の相互作用と意見変容、そしてその外枠にある立憲主義等により極めて複雑な過程として立ち現れてくるものであり、単なる票集計システムとして捉えるのは本質を見落としている。
そして、直接民主制というのは、アテナイがそうであったように「政治に関わることこそが自らの生を善き生にすること」という認識を持つ人々のみの社会で成立するものである。現代の社会では、大半の人々は別に政治に対して自らの生の重きをそこまで置いてはいない。だからこそ、政治をよく考えてくれる少数(政治家や官僚)を選抜して、その人たちに専門に政治の問題を考え、長期コミットメントしてもらう必要があるのであって、全員が毎回論題に投票するのは、たとえ委任システムがあってもあまりに非現実的だし望ましい社会ではない。「人々はきちんと考えた上で政治的意見を各自持っており、しかもそれは変容しえず、あとは集計するだけ」という著しい社会の単純化が見られると言えよう。

 

近代においては、確かに二分法的な把握はよく行われてきた。しかし、それは「本当に世界は二分法で出来ているから」ではなくて、厳密でないことを踏まえたうえで大雑把な指標として導入されているものである。規則は有限だが社会というのは無限に複雑であり、それゆえに有限の規則では常にこぼれおちる領域が存在する。しかしだからこそ、「境界」という構成法そのものは単純にしておきつつ、その位置を柔軟に変動させられるような社会になっているのであり、我々はそうして生きてきたのである。「複雑なものを複雑なまま捉えた」と傲慢にも思いこむことこそが、その柔軟性を殺してしまう。
ウィトゲンシュタインは、彼の前期哲学、言語を論理立てて分解し、完全に説明し尽くす、というものを批判し「ざらざらした大地に戻れ」と述べたと言われる。言語というのはそのようにきちんと積み上がった論理体系ではなく、我々の実践の中でさまざまな摩擦を発生させる「ざらざらした大地」なのである。本書について当てはめれば、著しく抽象的な体系で「社会」を捉えたと思っていても、それは現実とはつながっていない「つるつるした社会」なのであり、体系として美しくはなくとも現実の「ざらざらした社会」に戻らねばならないのである。

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コメント

超同意見(≧m≦)

この本の言うとおりになったら「分かりづらいけどなんだかよさそうな仕組みや物」を考える偽善者や詐欺師が得するだけのように思うしそもそもこの「なめらかな社会」とやらがそう言う風に見える。

大体既存のシンプルな仕組みの良さを理解せずに上から面白がって別のことしたがる人ってそもそも人生経験足りないんじゃないのと

この本に並べられている下手な喩え話よりこのエントリの反証のほうが参考になる

投稿: | 2013年6月10日 (月) 21時21分

この本を読んで、すごく納得いかない何かがやっとわかりました。
複雑を複雑としてとらえるというコンセプトはある意味、今風で、そう言ってしまえば、それができてしまうことのように思えてしまいますが、その実、二分法について厳密に捉えていくこと(境界の柔軟な位置変動について動的な把握をしていくこと)こそが複雑を捉えることなんですよね。
でもそんなことは神技でしかありませんが。。
ふいに頭を殴られたような気持ちです。
目から鱗でした。
世の中便利なものが溢れすぎていて、これがあれば全部解決みたいな論理をどうしても欲してしまいます。
「ざらざらした大地に戻れ」ずいぶん厳しい言葉ですが、たしかにそれが現実なのかもしれません。
四次元を捉えられない人間という限界を見る気がします。

投稿: なるほど | 2013年8月 4日 (日) 01時31分

恐怖による攻撃。
知らないものを知っている事で内包し、
安心を求める。
本書に書かれている通りの生物的な意見ですね。

微分はメチャクチャざらざらしてますよ。
教育以上の事を学習しましょう。

投稿: | 2013年8月28日 (水) 05時39分

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