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憲法九条、立憲主義、そして憲法学

安倍政権の安保法案を巡る議論で「憲法がないがしろにされている」「立憲主義の危機」等の意見がよくみられる。憲法学者の圧倒的大多数も集団的自衛権を違憲と表明しており、安保法案は立憲主義に背くものだと批判されている。確かに、憲法学者の九条解釈に真っ向から対立しており、法案の中身の是非と無関係に憲法の軽視は許しがたい、という考えは一見非常にもっともらしい。
しかし、この素朴な見方が妥当となるためには、立憲主義と憲法九条の関係の妥当性、そして憲法学の九条をめぐる姿勢とその妥当性があることが前提になる。果たして、これらは単純に妥当だと言えるのであろうか。ここではその点をすこし考えてみたい。
■そもそも憲法九条は立憲主義の精神にそぐうものなのか
立憲主義というのは、民主的な決定の中からあるタイプの争点はあらかじめ外しておき、民主的な決定の範囲を制限する、というものである。これは多くの憲法学の教科書に書かれていることである。民主的な決定から外されるのは、それが個人の領域を侵すからで、人権の規定が憲法に置かれているのはまさにこのためである。多数決で「こいつを死刑にする」「ある立場の人々の自由を奪おう」などということが行われては、異なる立場の人々同士で同じ社会を営めない。立憲主義は、民主的決定から個人的領域を排除し、政治的な議論に専念させる機能を持っている。
さて、憲法九条というのは、安全保障政策に対して一定の制限を課すものである。ところが安全保障政策というのは、個人的領域に関わるものでは全くなく、典型的な公共的・政治的な論点である。この点については、日本を代表するリベラリストである井上達夫がすでに指摘している。


安全保障戦略はときに予測不可能な形でカタストロフィックに変動する世界情勢に即応して再吟味されなければならず、改正の困難な硬性憲法によって通常の民主的政治過程のアジェンダから外してしまうのは不適切である。平和主義・国際協調主義などの一般的原理を国政の指導理念として憲法が宣明するのはよいとしても、それを実現するための戦略として、非武装中立、武装中立、集団的安全保障体制への参加など、いずれが実効的かについての政治的選択は、民主的立法過程の討議に付すべきであり、この過程を通じた批判的再検討に開かれていなければならない。(「九条削除論」 『リベラルからの反撃』収録。p141)


個人の人権のような各人に決定権を委ねることが正解となるような問題と異なり、安全保障政策は唯一絶対の方策があるようなものではなく、そのときの国際情勢に応じて適切な判断をする必要がある類のものである(軍縮や融和が戦争を誘発した事例も過去多数あり、単純に軍備を減らしたり同盟関係を制限したりすることが常によりよい安全保障につながることは全くない)。立憲主義は民主主義の存在を前提にしたものであり、民主的に決めるべき事柄を民主的決定領域に委ねることもまた、民主的決定をすべきでない問題を民主的決定領域から取り除くことと同等に、憲法が、そして立憲主義がなすべき機能である。ゆえに、安全保障政策の決定幅を憲法によって制限することは、むしろ立憲主義に著しく背くものである。憲法九条が軽視されることをもって「立憲主義の破壊」を嘆くよりも前に、自ら立憲主義に背く憲法九条の存在を問題視した方がよい。


ここで、憲法九条について「安全保障や軍事に関する政策は、しばしば国民は熱狂的になって冷静な判断を下せなくなるので、それを予め防いで自己拘束するために憲法に安全保障政策の制限を書き込んでおくことには意味がある」という擁護論がなされることがある。これは、民主的決定の制限という立憲主義の思想と九条を整合させる道として魅力的にも見える。しかし、この擁護論も落ち着いて考えてみるといろいろと問題が多い。
まず、「どういう方向に制約をかけるか」というのは一見明らかなようでいて非常に恣意的である。確かに「国民が熱狂して戦争に突入する事例」は多数存在するが、逆にすでに見たように不適切な軍縮や軍事への躊躇的な姿勢が逆に不適切な事態を生むケースも十分存在する。朝鮮戦争はその顕著な事例であるし、ソマリアで米兵に死者が出た(映画「ブラックホーク・ダウン」で有名)ためにアメリカ国民が恐怖に駆られてルワンダの内紛への介入を躊躇したことが防ぎえたルワンダ大虐殺を引き起こしたのは記憶にも新しい。国民の判断はどちら向きにも加熱しうるのであり、一方の立場のみを憲法に書き込むことは、特定の政治的立場を憲法が不当に擁護することにしかならない。
そして、そもそも「国民が熱狂的に判断しうる」というのは、安全保障政策に限らない。経済の問題であっても、例えば構造改革や郵政選挙が非常にポピュリスティックな状況になったことを思い出せば、経済政策もまた憲法に書き込んで制約を課すべきということになってしまう。しかしこれはあまりにも荒唐無稽である。(ちなみに、不況は人の生活を蝕み死に追いやりうる存在なので、「安全保障政策の誤りは人を殺しうるから」というのは安全保障政策のみに当てはまる性質ではない。)憲法で制約している自由や人権等は「冷静な議論を経たから」制約してよいようなものではなく、明らかに質を異にしている。軽率な政策判断を防ぐための手段はいろいろある(独立機関の設置や官僚制の利用、審議に時間のかかるシステムの採用等)のであり、憲法はその目的に用いるべきものではない。


■憲法学の九条に対する説はどの程度妥当性があるのか
憲法学者へのアンケートによると、圧倒的大多数が「憲法九条は集団的自衛権を認めていない」と述べているという。これを聞くと、「学者の大多数の反対を政府が無視するとは何事か」と考えたくなるのは素朴な感覚であろう。
しかし、そうした憲法学者たちが全体としてどのような論理構造から集団的自衛権違憲を導きだし、その構造からは他にどのような帰結が生まれるのか、をきちんと見てみると、先の素朴な感覚は怪しくなってくる。憲法学者の自衛隊そのものに対する見解の主流説は以下のようなものである。


前文(とくに第二段)のことも考えて、戦力全面不保持説かつB説(もしくはC説)をとりつつ、次のように論じるのが多数説である。憲法は、自衛のための武力行使や、それを可能にする戦力ないし、実力装置の保持を禁止しており、よって自衛隊は違憲である、と。(内野正幸『憲法解釈の論点 第4版』p125。強調引用者)


なおここで「B説」は「武力行使なき自衛権の身を認めているとする」説、「C説」は「自衛権を否認しているとする」説である。ちなみに第4版の出版年は2005年である。自衛隊が違憲であれば、もちろん集団的自衛権も違憲になるだろうが、それは憲法学者ではない多くの人の感覚や考え方からは乖離していると言えるだろう。
実際、警察予備隊から保安隊、自衛隊を設置する際、野党は憲法違反として批判し、憲法学者も違憲説に回った。政府はこれらの「多数の学者の批判」を無視して自衛隊を設置したわけであり、現在から振り返ればその政府の判断は正しかったと言えるが、一方の憲法学ではそういった過去の言動を反省するどころか、いまだに自衛隊違憲説をとり続けている。そのような状況では、憲法学者が何かまた批判をしてみたところで、政府に相手にしてもらえないのも仕方がない話であろう。


ちなみに、ここで「専門家たる憲法学者と一般的な感覚とが乖離したならば、むしろ一般の感覚の方が誤っており、憲法学者の見解に沿わせるべきではないか」という考えを持つ人がいるかもしれないので、少しこの見方についてコメントしておこう。確かに自然科学に関する事柄の場合、一般人の直観よりも専門家の理解の方が正しいと考えるのは妥当である。しかし、これが成り立つのは、「専門家の理解」というのは、自然に対する多数の実験による検証・反証を経て生き残ってきた学説なのであり、ゆえに一般人が素朴に自然に対して抱く理解よりも洗練されて妥当である可能性が高いからである。そして自然科学が扱う自然現象というのは、我々の存在とは無関係に存在し続けるものであり、それがどのような法則・性質を持っているかは、我々が望む望まざるとにかかわらない問題である。自然科学がときに専門家にしか分からない複雑な概念・手法を駆使していてもよいのは、それが自然科学者とは独立な「自然現象それ自身」によって常に検証され続けているからである。
一方、憲法というのはまさに我々人類がいるからこそ存在しているものであり、我々が憲法を作り使っているのは、それが我々の社会のよりよい状況、より望ましい状況への維持・発展に資するからである。そして「望ましい社会のための憲法の運用」のために憲法学は存在しているのであり、自然科学における「実験検証」に対応するものは、まさに「人々の規範意識との合致」のテストである。憲法学者が、憲法学者だけの世界で、理論体系の美しさと勝手な理想の具現を行い、多くの一般人の考えるところの「よりよい社会」からどんどん遠ざかってしまうのは、自然科学者集団が「こうあったらいいのに」という願望だけで一切の実験検証をせずに理論を盲信してしまうに等しい。理論と自然現象が合わないときに「自然がおかしいのだ」と開き直るのは全くもって科学者の姿勢と言えず、理論の再検討と修正を行うのが本来の科学者の姿勢である。これを踏まえれば、もし憲法学の理論体系が「自衛隊は違憲」という一般の規範感覚と合わない不合理な結論を導くのであれば、「一般市民の感覚がおかしいのだ」と叫ぶのはまさに「自然がおかしいのだ」と叫ぶ自然科学者と同様の誤りを犯しており、憲法学の理論体系の修正を試みるか「現行憲法は問題を抱えているので速やかに憲法改正すべきだ」と主張するのが正しい学者の姿勢であるといえる。


■憲法九条に問題があるならば、解釈改憲よりも憲法改正をすべきなのか
これまでの批判をすべて認めたうえで、しかし憲法にも主流憲法解釈にも妥当性がないのなら、政府がとるべきはそれを解釈改憲したり無視したりするのではなく、正面切って憲法改正するべきではないか、という考えを持つ人も多いだろう。これは非常にもっともな考え方だが、しかしそれにはそもそも「憲法改正が現実性のある手段として開かれていること」が前提となることに注意する必要がある。
もし憲法改正条項が憲法に存在していなければ、憲法に不適切な条項があればそれを無視することは「仕方がない」と考えるだろう。では、例えば「国民投票で国民全員が賛成したら改正(国民の一人でも棄権か反対をしたら改正できない)」という規定だったらどうであろうか。確かに改正条件が存在する以上、「原理的には」憲法改正は可能である。しかし、この改正条件の下では「実質的には」憲法改正は不可能である。もしこの憲法が不適切な内容を抱えていたとしたら、それは憲法改正によって内容を変更するように絶望的な努力をし、それが成功しない限り何も行動をとらないよりは、憲法の内容そのものを無視する方が妥当な行動といえる。これは立憲主義が踏みにじられたというより、立憲主義を踏みにじらざるを得ないような構造をとっている憲法そのものが欠陥であったと見る方が妥当である。悪い状況の下で苦渋の選択を下した際に、悪い状況の方ではなく苦渋の選択を下した人間の方を非難するのは、死刑廃止論者が死刑制度ではなく死刑執行人の方を非難するのと同様に誤っている。
では、日本の改正条項はどの程度高いのであろうか。欧米先進国と比較した場合、日本の改正条項が高いのは事実である(「法哲学者大屋雄裕先生による「日本国憲法の改正要件は厳しいはウソ、はウソ」」)。大体の国で、国民投票がある場合は議会の要件は過半数かそれに近い数になっている。もちろん例外的な国も存在し、「議会での三分の二またはそれ以上の特別多数+国民投票」というシステムをとっている国として、ルーマニア、韓国、アルバニア、フィリピンを挙げることができる。逆に言うとこの程度の(マイナーな)国しかないということでもあるが、重要な点はこれらの国はすべて一院制であり、しかもアルバニア以外はすべて小選挙区制であるという点である。郵政選挙や二度の政権交代時の選挙を見ればわかるように、小選挙区制は得票率に対して過大に第一党に議席を割り当てる制度なので、一院制+小選挙区制の下で議会で三分の二を確保することはそれほど難しくはない。一方、日本は二院制の上、参議院は中選挙区(複数候補を立てると共倒れしやすく、大きな割合の議席は取りにくい)+比例代表で、しかも半数改選であり、参議院で三分の二を確保するのは非現実的と言える。無論、党利や政党間の駆け引きを放棄して議員が賢明な判断を下すのであればこれでも大丈夫かもしれないが、残念ながら社会党の「とにかく反対」の伝統からか日本の議会はそのようには動いていない。ちなみに「アルバニアは?」というかもしれないが、アルバニア憲法はかつて憲法で宗教を禁止した悪名高いものであり、そもそも手本として参照すべき憲法とは考えにくい。このように見ると、日本の憲法改正条項は非現実的なまでに高いと言ってもあながち間違いではなく、その状況下での行動としては、もし憲法の条項が不適切であるならば、それが無視ないし軽視されてしまうことを咎められるだけの優越的な立場は存在しないと言ってよいであろう

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