平等

エリート校と経済格差

なんか国立大付属小・中・高校が批判されているよう(熟議カケアイ)。
特に私もいたことのある筑波大学付属駒場高等学校(筑駒)は、東大入学者が多かったりでやたら批判にさらされることが多い。

けど、なんかいろいろ誤解したまま批判している人も多いようなので、とりあえずいくつか書いておく。


まず、筑駒はエリート校って言われるけど、とりあえず学内の先生は大学受験に関心をほとんど持ってない。少なくとも、他の公立と比べれば低い。先生は好き勝手なことを教えているだけ、こんなのは国立付属校にいたことのある人ならわかるはず。
じゃあなんで東大合格者が多いって、それは一部は勝手に勉強する人がいるからと、後の大半は塾に行くから。もちろん高校で「知る楽しみ」を教えて、それによって勉強を自発的にするようにするという理想的なフローについては、うちの高校はある程度実現されている気はするが、それは受験教育云々とは程遠いものだろう。

次。筑駒のようなところは実験校として機能しないという批判。これについては、他の公立校で出来ないようなとんでもない授業をする先生がごろごろいるし、すごい教え方をすることもしばしばであるのだから、十分実験校として機能すると思う。
サンプルがエリートに偏っていて平均的でないという意見もあるが、そもそも国は平均的な学生向けの教育法開発しかしてはいけない、という前提に立っている時点でおかしい。勉強が出来る人対象の教育法を考えることは十分意味があるし、そのための実験をすることは意味があるだろう。

また、上のリンクでも言われている
一般の公立校と比べて教育実習生の授業が多いことから、多少の選抜はやむを得ないかもしれません。しかしながら、こんなにも経済的に豊かな家庭に生まれた超優秀児を集める必要があるのでしょうか。
という経済的な問題について。これについてはまったく逆。

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シグナリングと優遇措置

学歴が優秀性のシグナリングとして機能するという話は、スペンス以降よく聞くようになった。それに絡めて、人種差別と学歴シグナリングの逆説的なつながり――アファーマティブアクションが逆に優遇した人達を損にさせてしまうという点――を指摘する話もときどき聞くようになった。その例として、J.ミラー『仕事で使えるゲーム理論』阪急コミュニケーションズを取り上げよう。

シグナリング理論によると、大学がある人種を差別すれば、雇用者は逆にその人種を優遇することになる。悲しいかな、その逆もまた真なのだ。
不当に差別された人たちを救済するアメリカの積極的優遇措置は、大学が卒業生の資質を証明するという役割に関する限り、優遇措置の対象となる人種グループにかえって悪影響を及ぼしてしまう。高校生の学業成績を0点から100点に換算するとしよう。ある難関大学が、Xグループからは90点以上の学生を受け入れ、Yグループからは積極的優遇措置によって85点以上の学生を受け入れるとしたらどうか。この大学に入る最大の利点が、学生の資質の高さを証明するシグナルの発信にあるとしよう。不幸にも積極的優遇措置のために、この大学を卒業したというシグナルの価値は、優遇されたYグループの方が低くなってしまうだろう。
(pp213~214)

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オバマの勝利と黒人問題

アメリカでは黒人問題がいまだに・・・などと言われることも多いが、なんとなく疑問が残りもする。

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ドゥウォーキン「逆差別」(『権利論』収録)と、アファーマティブ・アクションの諸問題

アファーマティブ・アクションとは、差別をなくすという目的で、一般人の利益を損なわせてでも被差別者を優位に取り扱おうとする政策のことである。たとえば、法科大学の試験において、より優秀な成績を収めている白人を不合格にしてでも、成績は劣る黒人の方を合格させるような政策である。

ここでは、こうしたアファーマティブ・アクションの擁護論として、ドゥウォーキンの「逆差別」(『権利論』収録)を取り上げ、これへの反論を試みたいと思う。

まずドゥウォーキンのアファーマティブ・アクション擁護論をみよう。彼が念頭に置くのは、こうしたアファーマティブ・アクションと、「黒人を嫌う人が多い中では、黒人を隔離している方がむしろ有益だ」という形での黒人差別との間に区別を設けることである。

アファーマティブ・アクションとそうした黒人差別との差として彼が提出するのは以下のような論拠である。

1 理想論的論証

黒人を優遇するアファーマティブ・アクションは社会の正義を増大させる政策だと言えるが、黒人差別は社会の正義を増大させない。黒人差別は、社会の利益の増大という功利主義的論証しか用いることができない。

2 功利主義的論証の外的選好の排除

功利主義において計算される選好には、「個人的選好」と「外的選好」の2種類がある。前者は、自分自身が受ける利益に対する選好であり、後者は、他者が受ける利益に対する選好である。そして、後者を計算に入れてしまうと、ある種のダブルカウントが発生することになり、功利主義の「一人を一人として扱う」という平等主義的性格は崩れる。ゆえに、功利主義では個人的選好のみが計量されるべきである。

そして、アファーマティブ・アクションは個人的選好によって維持できるのに対し、黒人差別は外的選好によってしか維持しえない。ゆえに、功利主義的論証においても、アファーマティブ・アクションは黒人差別と明確な差を設けることができる。

では、「1 理想論的論証」への反論を試みよう。

ここで言われている「正義」は、実質的には「平等」の増大を指している。すなわち、アファーマティブ・アクションは社会の平等を増大させるということである。

しかし問題は、アファーマティブ・アクションが行われる前において、はたして誰が社会の不平等性を訴えていたかという問題である。これは試験において落とされた黒人ではない。なぜなら、黒人差別がおこなわれているときならば「私は能力があるにもかかわらず、黒人であるがゆえに落とされた」という合理的な訴えを行いうるが、こうした差別が廃止された状況では、たとえアファーマティブ・アクションが行われていなくても、このような合理的な訴えを行い得ないからである。

ということで、社会の不平等性を訴えているのは差別された個人ではない。アファーマティブ・アクションで増大されるのは「結果の平等」であるので、総体としての結果を社会の外側から見られる人間、つまり為政者的な観点から意見を述べている人々が、こうした訴えを行っていると考えられる。

だが「結果の平等」論を唱える人は、個々人ではなくて、出来上がった数字のデータしか見ていない。つまり、完全に数字の上での調整しか行っていない。だからこうした「結果の平等」を用いると、例えば極端な例として、アメリカにおいて、北部では黒人しか雇わず、南部では白人しか雇わないようにしたとして、数字の上では確かに黒人と白人が半々になるので、「人種の平等」が実現していることになる。だが、果たしてこれが人種差別が存在しない状況だといえるだろうか。アファーマティブ・アクションは、これと同様の帰結しか生まない。

ゆえに、アファーマティブ・アクションを行っても社会の正義が増大するとは言えない。

次に、「2 功利主義的論証の外的選好の排除」への反論を試みよう。

ここで問題にすべきは、アファーマティブ・アクションによって増大する功利主義的要素もまた外的選好に由来するのではないか、という点である。

ドゥウォーキンの取り上げるロー・スクールの例では、

A 黒人学生の増大は、黒人弁護士の増大につながり、それは黒人社会に対してよりよい奉仕を行う

B 黒人学生が多いほど、社会問題について議論する法学の授業の質が向上する

C 他の黒人を鼓舞し、結果として社会全体の知的水準を向上させられる

などといった利益があげられている(p306)。

だが、ここであげられている例もまた外的選好に依拠している。たとえばAは、これを成立させるためには、弁護士としての能力が同じならば、黒人に対しては黒人弁護士の方がより親しみやすく、弁護士も黒人であれば黒人に対しより積極的に働く、という仮定を置かざるをえない。だが、これは、黒人に対する外的選好による利益であるがゆえに、ドゥウォーキンの主張する功利主義的計量からは外さなければならない。Cも同様である。黒人が活躍することが黒人である人を鼓舞するということは、鼓舞された人は黒人と白人とを外的に差を持って見ていることによって発生する利益ということになるからだ。

Bについては、これによって発生する利益が考慮に値するものだとは考えにくい。なぜなら、生徒の多様性を考えるなら、たとえば出身地別に人数の枠を決めれば多様性をより実現できるが、そのような入試方式をとるというのは考えられないからである。

以上より、外的選好を排除した形での功利主義的論証を試みると、アファーマティブ・アクションもまた論拠を失うことになる。

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