心の哲学

心の哲学における言語的混乱

「心の哲学」の問題の一部は、語の用法を誤ることによって発生している。そこで、ここでは心の哲学に見られる言語の意味を明確化し、不要な混乱を取り除こうと思う。

心の哲学においては、「心と脳は同じか」などという問いがよく発せられる。しかし、この問いは、二重の意味で問題点を含んでいる。

第一に、「心が」などと書くことによって、「心」として指示されている対象が実体物であるかのように錯覚されている。「心」としてわれわれが考えるものは、「思う」「考える」「感じる」「欲する」「信ずる」・・・のようなものである。しかし、ここで挙げられているものはすべて何らかの活動であり、固定された実体物ではない。ゆえに、「心」として指示されているものは、上記したような心的活動の集積であり、「もの」ではない。

第二に、「脳」として指示されているものは、特に唯物論的な文脈においては、脳ではない。還元主義的な唯物論者は、すべての事柄を「脳の物理的叙述」に還元できると主張する。だが注意すべきは、「脳の物理的叙述」と「脳それ自体」はまったく別であるということである。「~は脳と同じ」などという場合には、「~の指示対象は脳である」と言いたいのか、「~の叙述は物理的叙述に還元できる」と言いたいのか、あるいはその両方なのかを、きちんと明確化しないと議論が混乱するだけである。

さて、第一の事実により、心はその存在のためには時間的幅を必要としていることがわかる。このことは、心というものが、ある時点tに対して定義可能な状態量ではなく、変化に付随する量であることを意味している。運動量は状態量ではないか、との反論があるかもしれないが、運動量mv=mdx/dtは式を見ればわかるように位置の微分を含んでいる。そして、位置は時点tに対して定義できる。しかし、心が何かを微分して得られたものだとすれば、その元の何かは時点tに対して定義できなくてはならない。ところが、時点tに対しては心的叙述は一切行えないため、その元の何かは、心的にも物的にも叙述されないナンセンスなものとなる。

このことは非常に重要なことを帰結させる。まず、上記の論により、二元論が否定される。以下のように考えてみよう。もし時間が止まったならば、心というものは消滅してしまうことがわかる。なぜなら、心は状態量ではないからである。しかし、二元論では心的世界が何らかの形で存在するが、これは時間が停止しても、何かのものをその心的世界には残さねばならない。これは矛盾である。よって、二元論は否定される。

次に、機能主義ないし行動主義もまた否定される。心が変化に付随する量だということは、心を取り扱うには変化に着目しなければならないことになる。ところが、機能主義ないし行動主義は、インプットとアウトプットにしか着目しない。心において重要なのは「どのように」成すかであるのに、機能主義や行動主義は「何を」成すかしか扱わない。ゆえに、機能主義ないし行動主義は心を正確に取り扱えない。

さて、二元論が否定されたので、心的叙述というものは脳の変化に対して行われているものだと分かる。よって、脳状態に対しては、物理的叙述と心的叙述の二つの叙述が存在するということが出来る。問題は、この2者の記述間にどのような関係があるのかという点に帰着する。

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