環境問題

生物多様性について

今年はどうやら生物多様性の年だとかなんかで、本やニュースでもやたら生物多様性が特集されているらしい。だが、「生物多様性を守れ」とばかりに動いているアピールには正直疑問を禁じ得ない点もある。先日のNHKの朝のニュースで、「外来種のザリガニが増えることで、昔から地元にいたトンボが激減している」ということを「生物多様性の危機」として報じていたのだが、いろいろと違和感を持った。

トンボとか他にはホタルとかを守ろうとするこういう試みはいいと思うのだが、単刀直入に言ってしまえば「そうした運動はトンボとかホタルを守るためのものであって、別に生物多様性云々は関係ないんじゃないのか」ということである。

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二酸化炭素削減目標05年比採用を評価する

二酸化炭素削減目標を05年比で採用したことについて、毎日新聞では「意志と理念が伝わらぬ」と酷評しているが、個人的にはアンフェアな90年比を離脱したことの意義を評価したい。

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環境問題で日本は「笑いもの」になるのか?

斉藤鉄夫環境相は12日の閣議後会見で、日本が2020年までにどの程度の温室効果ガス削減を目指すかという中期目標について、経団連の御手洗冨士夫会長が11日に日本経済に最も負担の少ない「4%増加」を支持したことを受け、「(4%増では)世界の笑いものになる」と反論した。さらに、「低炭素社会の先頭をいく技術を持った日本がまったく後ろ向きの目標を出すことは、日本の地位をおとしめる」との考えを改めて強調した。
 中期目標をめぐっては、検討委員会が提示した1990年比で4%増~25%減とする6案をもとに、国民から意見を聞いた上で政府が6月中に決定する。経済重視派は、大幅削減は家計や経済活動への負担が大きすぎるとし、現状の削減努力を継続する4%増案を支持。一方、環境保護派は待ったなしの温暖化防止のためには最も厳しい25%減の選択肢もやむをえないとしている。
 斉藤環境相は、(1)科学の要請(2)中国など途上国を含めた1つの国際的な枠組みづくり(3)日本の社会産業構造の変革を促す-の3つの観点から「野心的な中期目標が必要である」との見解を述べた。
産経ニュース

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環境問題の実践提言

では、日本はどのような環境対策を行うべきだろうか。

日本は、資源も地理的条件も環境対策に適しているとは到底いえない。つまり、風力発電を行ったり、排出量を目に見える形で減らしたりするような「まさしく環境対策やってます」といった雰囲気の環境対策を行うのに、日本は適していない。代わりに日本が持っている強さは、その技術力である。したがって、その高い技術力を軸にした地球規模の環境対策を、日本は展開すべきである。

その具体的方策として、以下の三点を提言する。

第一に、世界の国々の環境対策レベルを、日本の水準まで引き上げるよう、技術協力をすべきである。

すでに記したように、日本の環境対策の技術レベルは、他の先進国と比較しても高い。このことは、他国を日本の技術レベルに引き上げるだけで、相当な環境対策として機能することを意味している。

第二に、日本は原子力発電を推進するべきである。原子力発電は高度な技術力を要求する発電であるため、日本の特徴にあった発電方式だといえる。

しかし、原子力発電には批判も多い。批判は大別すれば「クリーンではない」「ウランは枯渇する」「危ない」の3点にあるといっていいだろう。以下順に見ていく。

まず、「クリーンではない」という批判は余り意味をなさない。なぜなら、地球にとっては最適な温度や状態などというものが存在しない以上、地球にとって「クリーン」というのは意味を成さないからである。これを人間にとって「クリーン」と解釈してよいならば、これは純粋に技術的な問題へと還元されるので、十分に解決可能である。

次に、「ウランは枯渇する」という批判だが、ウランはIAEA等の調査によると、200年以上は枯渇しない(http://www.world-nuclear.org/info/inf75.html参照)。

また、原子力発電は「危ない」と言われるが、過去の原子力事故は、ほぼすべて人為的な要因でおきている。純粋に技術的な意味でのリスクは、無視できる程度のものでしかない。そのため、原子力に関わる人間の教育の徹底と、優秀な人材の確保が必要だと考えられる。ところが、それを妨げているのが「原子力=悪玉」論である。こうした論がはびこることによって、原子力にたずさわろうとする優秀な技術者が減っている。

そこで、日本がすべきことは、原子力への悪評を正して、原子力に携わる優秀な人材を確保し、きちんとした教育を行うようにすることである。

第三に、超伝導ネットワークの開発である。高温超伝導体によるケーブルで世界各地をつなぐことが出来るならば、最適な場所で最適な発電を行うことが出来る。例えば、都市部から離れているが風は強い地域に風力発電所を大量に設置すれば、エネルギーロスなくして全世界に大量の電力が供給できる。また砂漠は昼と夜で大きな温度差があるが、この温度差を生かした発電所を大量に設ければ、やはり大量の電力を得られる。

これまでは、電力送信時のエネルギーロスの問題があったため、発電所を最適な場に設置することが出来なかったが、高温超伝導ネットワークが構築されれば、最適な場所で最適な発電を行うことが出来る。

日本のすべきこととしては、高温超伝導ネットワークの開発をするとともに、最適な場所で最大効率の発電を行えるように発電設備を開発し技術協力していくことだろう。

国の枠組みに固執して国内での削減にこだわるのではなく、このように技術開発、技術協力を地球規模で展開していくことこそが、日本の行うべき環境対策の基本方針である。

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既存の環境対策の方法の問題点

第一に、二酸化炭素を基準年から何%排出量削減を目標とする、などといった方法には問題がある。

なぜなら、たとえば日本に限っていうと、日本の環境対策のレベルは、ヨーロッパやアメリカ等の先進国と比べても、飛びぬけて優秀である。(小宮山宏『地球持続の技術』参照)そのため、すでに相当対策の進んでいる日本が、さらに何%削減を行うのは相当苦しい。少なくとも、諸外国が同様の割合減らすのに比べると、格段に努力が必要となる。

乱暴に言えば、EUなどはまだ環境対策が進んでいなかったから、何%削減などと言えてしまうのである。環境後進国であったがゆえに、これから削るべき部分がいくらでもあるのだから。

第二に、環境対策の目標を国ごとに(例えば、どの国も、二酸化炭素の排出量を2020年までに10%削減、のような)設定するのは、あまり賢明な方法だとはいえない。

なぜなら、たとえば二酸化炭素に絞って考えると、その排出量は人間の数に比例するものであるのに対し、その削減量(クリーンな発電などによる)は土地の面積に比例するものであるからである。そのため、人口密度の高い国であれば二酸化炭素排出量は多く、人口密度の低い国であれば排出量が少なくなると予測される。少なくとも、潜在的な能力としてみれば、人口密度の高い国は不利で、低い国は有利である。国に対する義務適用は、こうした根本的差異を見のがしている。

第三に、環境対策をしているか否かを、特定の方法の環境対策を実施しているか否かで判断しようとするのは、妥当な考え方ではない。

例えば、今日では風力発電の設置を呼びかける動きは強い。だが風力発電は、一定の方向から継続的に強い風が吹くような地域では有効な発電方法だが、そうではない地域で風力発電を無理に行うのは効率的ではない。「風力発電をやっています。だから私たちは環境対策しているんです」と言いたいがために、適切でもない場所に強引に風車を設置するのは賢明ではない。太陽光発電、バイオ燃料もしかりである。

日本の一部の人々は、欧米の行っている環境対策を唯一絶対の方法に祭り上げて、日本がそうした方法を少ししか取り入れていないことを「環境対策が遅れている」と非難するきらいがある。だが、そうした批判は、環境対策の地域差を見落としている。環境対策には万国共通のオールマイティーな方法などは存在しない。環境問題を考えたいならば、日本の地理条件を見たうえで、最適な環境対策の方法を考えるのが一番だろう。

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環境問題を議論する前提についての問題点と提言

今日の環境問題論議ではやたらと難しい用語が用いられたり、抽象的論議に終始したりしているが、元を辿れば環境問題は「この森をどう守るか」「この地球をどう守るか」などという形の問題に帰着する。ところが、この大前提が欠落した環境論は多い。

例えば、今日では環境問題といえば地球温暖化、二酸化炭素とつながるだろうが、環境問題は二酸化炭素の問題以外にもさまざまある。二酸化炭素のみに目をやるのは、二酸化炭素以外の点から目をそらすことでもある。今日では、「二酸化炭素を減らすように行動すること=環境に配慮すること」という等式が成立しているが、本当の等式は「地球温暖化を食い止めること=環境に配慮すること」である。二酸化炭素を減らすことそれ自体を目的として、環境への大局的視野が欠落するのでは本末転倒であろう。

さらに、本当に議論されるべき点は「何をすれば森を守れるか」であるにもかかわらず、冷静にその議論が行える状況にない。言い換えれば、「二酸化炭素が地球温暖化の原因なのか」をまともに話し合える状況にない。これは致命的問題である。

昨年IPCCはノーベル平和賞を受賞した。彼らは喜んでいるのかもしれないが、IPCCは純粋に科学的知見から地球温暖化を分析しているはずである。ノーベル平和賞をもらってしまったということは、IPCCが特定の政治的立場にコミットしていることを如実に表している。科学者が政治的立場にコミットするということは、科学的客観性を政治的立場によって歪めているということである。実際、今の状況でIPCCが「二酸化炭素は実は地球温暖化には何の関係もありませんでした」と言えるだろうか。おそらくノーだ。だがこのような状況である限り、IPCCは政治運動家としては優秀なのかもしれないが、科学者としては失格である。

以上の点を踏まえれば、環境問題の原因と解決方法について、冷静な議論の場を確保するということが急務だといえよう。

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