核兵器を脱神秘化する
核をめぐる議論では、一方の極には「一定水準の国は核を持っていた方が世界は安定する」という核武装論、もう一方の極には「核兵器などない方が平和」という核廃絶論があり、その間のバランスをとるようなところに多くの議論は位置している。そして、これらの双方に挑戦するかのように、北朝鮮などのいくつかの国家は、既存の制度を破って核保有をすることをもくろみ、または実行している。
これらの議論の共通の前提にあるのは「核兵器は極めて恐ろしいものだ」という「畏怖の念」である。これがあるために、核兵器は抑止として機能するし、また同時に廃絶されるべきものだとされる。いくつかの独裁的な国家や軍事政権が核保有に熱心なのも、それが脅しのカードとして極めて有効なものだからである。
しかし、一歩引いて考えてみよう。本当に核兵器は恐ろしく思うべき対象なのだろうか。いやもちろん実際に使用された場合に甚大な被害が出るというのは事実であるが、問題は「どういうときに使用されうるのか」ということである。つまり、核兵器が軍事的な戦略としてどういうときに有効に使用しうるか、ということである。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント