科学哲学

ヒュームの「帰納法への懐疑論」を乗り越える

ヒュームの「帰納法への懐疑論」は有名である。これは、帰納的推測の妥当性を問うものである。多くの人は帰納的推測の妥当性を問われて「以前行ったあの帰納的推測は正しかったし、別のとき行ったあの帰納的推測も正しかったし・・・」と挙げていくだろう。しかし、これは「以前行われた帰納的推測が正しかったから、次の帰納的推測も正しいだろう」という、それ自体が帰納的推測を行ってしまっているので論点先取りになってしまい、帰納的推測の妥当性を示すことにはならない。これが懐疑論の要点である。この「帰納的推測の妥当性」というのは、「世界は、似たようなことをすれば似たようなことが起きるようになっている」という「斉一性原理の擁護」とも言える。

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科学理論と現在の「特権性」

科学哲学において、実在論と反実在論という二つの立場がある。それぞれ、前者にはパトナムの奇跡論法、後者にはラウダンの悲観的帰納法という有力な議論が ある。二者の立場の詳細は伊勢田氏の解説に譲るとして、ここでは既存の議論とは異なる視点から実在論を論じてみたい。

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「ニセ科学批判」批判のようなものについて

ウェブで見つけた記事だが

 ニセ科学批判ほど、画一化した思想はない。もともと、ニセ科学批判という創造的な概念を開発したのは、菊池教授である。菊池教授こそが疑似科学批判という概念を一歩前進させ、ニセ科学批判という新しいジャンルを生み出したのである。
 そして、多くのブロガーたちを魅了し、自己の思想に賛同する信者をつくってきたのである。確かにネットにおける新型の社会運動として評価できる側面もあるのだが、宗教組織と似た特質が見受けられ、その思想と方法はあまりにも画一的である。
 
  まず、菊池教授のニセ科学批判の考え方に反対するニセ科学批判者はほとんどいない。菊池教授のブログ「キクログ」という聖地があり、多くのニセ科学批判者 が集い、語り合う。サブリーダーたち=常連たちがおり、その下にあまたのニセ科学批判に同調したブロガーやコメント屋がいる。
 興味深いことに、もし自分たちの論理に合わない発言をしたら、攻撃をくらい、訂正しないのなら、ニセ科学批判者から閉め出され、異端視され、ニセ科学批判批判者としてレッテルを貼られる。
 例えば、安易なニセ科学批判を自己のブログですると、サブリーダーたちからの襲撃をくらい、異端者のレッテルを貼られ、正規のニセ科学批判者のグループからはじき出される。
  そのようなかたちで、当初、ニセ科学批判に賛同していたブロガーが、自己の説の自由性・個別性を否定され、ニセ科学批判批判者へと変貌していくのである。 ニセ科学批判は誰にも開かれた思想ではあり得ないのである。異端派のニセ科学批判者は、いずれニセ科学批判批判者となるのである。(「ニセ科学批判に多様性・自由性は存在しない」)

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理性の限界?(2)~不完全性定理

さて今回はこれまた誤解の多い不完全性定理について取り上げる。

完全性定理については、本書ではわりと正しく書かれている。

簡単に言えば、論理の世界では、「真理」と「証明」が同等だということです。論理的に真理であるということは、公理系で証明できるということと同じであり、その逆もまた成立するということです。(p219)

ところが、そのあとの説明でいきなりおかしな方向へ行く。

ところが、数学の世界では、「真理」と「証明」が同等ではないわけです。つまり、数学の世界には、公理系では「汲みつくせない」真理の存在することが明らかになったわけです。このことを証明しているのが、「自然数論の不完全性定理」なのです。(p219)

一方の不完全性定理については以下のように説明される。

論理学者 それでは、ここで不完全性定理の結論を述べましょう。一般に、システムSが正常であるとき、真であるにもかかわらず、Sでは証明可能でない命題が存在します。(p224)

まず確認しておかなければならないことは、完全性定理の「完全」と、不完全性定理の「完全」とでは意味が全く違うということである。

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理性の限界?(1)~不確定性関係

高橋昌一郎『理性の限界』という本をパラパラと見てみたのだが、生半可な理解で犯しがちなミスをことごとく犯しているので、何回かに分けてきちんと解説しておく。

まず相対論に関して少し取り上げよう。

司会者 時間と空間が相対的というのは、どのようなことなのでしょうか?
科学主義者 文字どおり、時間や空間も観測者の運動に応じて異なるという意味です。
(p134)

この説明はなんかポイントを捉え損ねている。相対性原理はアインシュタイン自身の原論文では以下のように定義されている

互いに他に対して一様な並進運動をしている、任意の二つの座標系のうちで、いずれを基準にとって、物理系の状態の変化に関する法則を書き表そうとも、そこに導かれる法則は、座標系の選び方に無関係である(A.アインシュタイン『相対性理論』p20)

つまり、相対性原理というのは「どの座標系からみても同じ物理法則でいい」ということである。例えば、私が静止していてAさんが一定の速度で遠ざかっているとき、「私が止まっていてAさんが遠ざかる」とみようが、逆にAさんの立場に立って「Aさんは止まっていて私が遠ざかる」とみようが全く同じ物理法則が成り立つということである。
なんか当たり前の法則のような気がするが、(この本では触れられていないが)静止エーテル問題というのがあって、もし静止エーテルが存在するならば、静止エーテルを基準として動いているか止まっているかが規定されるので、上記のような相対性原理は成り立たなくなる(プールの中では仮に私が止まってAさんが動いているならば、私を基準のとるかAさんを基準にとるかで、同じ物理法則が成り立つとは言えない(Aさんを基準にとったら水が押し寄せてくるように感じるだろう)ことをイメージしていただきたい)。ちなみに、空間が観察者に応じて異なるのはニュートン力学でも同じである。

さて、本題の量子論である。誤解の多い不確定性関係について、本書では以下のように導入される。


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科学革命について 2~パラダイム前後の連続性の問題

過去の、誤っているとされた理論も、それは単純に誤りとして捨てられるべきではない。そうした「誤った」理論も、自然現象のかなりのところを適切にとらえている。

そして、そうした「誤った」理論の方がより直観的であり、それは日常に近いところではなお用いられているといえる。例えば、天動説は否定され地動説が正しいとされたが、日常ではなお「日が沈む」などという。また、熱は粒子運動であるとされカロリック(熱素)説は否定されたが、しかし日常では「熱が広がる」などのカロリック的用語法を用いている。

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科学革命について 1~客観性の問題

科学における人間的側面から考えてみよう。これについてはクーンとほぼ同じ考えである。つまり、パラダイムを究極的に選択するのは人間だが、それは恣意的であって構わないわけではく、基準を用いて決定せねばならない、科学革命におけるパラダイムの選択には、複数の基準が存在しているが、それはアルゴリズム的ではない、というものである。

パラダイムの究極的決定者が人間であること(クーンはこれを強調した)から、パラダイム選択の恣意性を唱える人は多い。だがむしろクーンの功績は、パラダイム決定は究極的には人間である「にもかかわらず」、科学は信頼に足る実績を構築できると論じた点であろう。

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グッドマンのグルーのパラドックス

グルーのパラドックスとは、以下のようなものである。

今まで観察されたすべてのエメラルドは緑であったとする。そうすると、帰納的推測により、2009年に観察されるエメラルドも緑色だろうと確証することができる。

ここで、「2008年までに観察されれば緑色を指し、2009年以降ならば青色を指す単語」として「グルー」という語を導入すると、これまで観察されたエメラルドは緑色であると同時にグルーでもあることになる。つまり、エメラルドが緑であることとグルーであることとは同程度に確証されることとなり、2009年以降のエメラルドについては、帰納的推測によって緑ともグルー(=2009年以降なので青)とも同程度に確証されてしまう。

しかし、グルーとはいかにも不自然な単語ではないか、との反論に、グルーのパラドックスの提唱者グッドマンは以下のように反論する。時刻tまではブルーであり、時刻t以降はグリーンであることを意味する単語をブリーンとする。すると、グリーンは「時刻tまではグルーであり、時刻t以降はブリーンである」と定義しなおせる。このように、グリーンもまた同様に不自然な単語足りえるのである。グルーとグリーンの差は、我々がどのような言語をこれまで用いてきたかの差に過ぎない。

これをより一般化して、グッドマンは以下のように述べる。

任意の言明Sから始めよう。SSと任意の言明(それをSと呼ぼう)の連言の帰結であり、したがって、われわれの判断基準によれば、その連言を確証する。ところが、確証された連言SSは、もちろんSを帰結として持つ。そこで、すべての言明は任意の言明を確証するということになる。N.グッドマン『事実・虚構・予言』p114

さて、グルーのパラドックスへの一般的応答としては、「グルーというのが不自然であるのは、われわれが一般的に色は時間によって変化しない、ということを知っているからである」というものであろう。

だが、私はこの応答は不完全であると考える。

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ヘンペルのカラスのパラドックス

ヘンペルのカラスのパラドックスとは以下のようなものである。

「すべてのカラスは黒い」を確証したいとする。たくさんのカラスを調べてそのどれもが黒いことを確かめれば、「すべてのカラスは黒い」は確証される。

ところが、「すべてのカラスは黒い」の対偶は「すべての黒くないものはカラスでない」であるから、たくさんの黒くないものを調べてそのどれもがカラスでないことを確かめれば(例えば、この白い靴、青い服・・・をたくさん持ってくる)、「すべてのカラスは黒い」が確証されたことになる???

これに対する、よくある応答は以下のようなものである。

カラスでないものの数が少ない場合には、確かに対偶による方法はうまくいく。だが、我々はカラスでないものの方がカラスよりも圧倒的に多いことを知っているので、対偶による確証を不自然だと感じるのだ

この応答は、以下のような例を考えることによっても支持できるとする。

「本棚のすべての洋書にはブックカバーがかかっている、を確証したいとする。この場合、洋書でない本が少ない(=ブックカバーがかかっていない本が少ない)ならば、対偶をとって、すべてのブックカバーがかかっていない本は洋書ではない、を調べるのは合理的である」

だが、この応答は不完全なものだと思われる。

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ポパーの批判的合理主義は本当にダメなのか?

ポパーの反証可能性を軸にした批判的合理主義は、有名ながら誤解も多く、誤解による批判も多々あるようである。ここでは、そうした誤解を解きつつポパーの論を再構築したい。

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