哲学一般

科学理論と現在の「特権性」

科学哲学において、実在論と反実在論という二つの立場がある。それぞれ、前者にはパトナムの奇跡論法、後者にはラウダンの悲観的帰納法という有力な議論が ある。二者の立場の詳細は伊勢田氏の解説に譲るとして、ここでは既存の議論とは異なる視点から実在論を論じてみたい。

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論理と感情は二項対立関係か

論理と感情はしばしば二項対立的に捉えられる。例えば「人間は論理ではないのだから」などのテーゼには、そうした前提が潜んでいる。だが、論理と感情は二項対立的というよりも、むしろ次元の違う内容を比較してしまっているのではないだろうか。

感情というのは、単純に「~したい」「~は楽しい」「~は嫌だ」といった一つの感覚である。ここにあげた例ほど簡単ではない複雑な感情でも、本質的にはすべてそうである。なので、感情は「人間の行動・判断に対する動機付け(モチベーション)」である。
他方、論理というのは「AだからB」といった、正しい結論を導くための規則である。やや難しくいいかえると、論理とは「「何が正しいか」を決定するための唯一の方法」だということである。いかなる主張も、論理以外の方法では正当化されえない。


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バックラッシュ批判の構造問題

多くの言語論的転回を受容する人々(社会的構築主義者)の議論、例えば金森修『サイエンス・ウォーズ』、土佐弘之『安全保障という逆説』、上野千鶴子等共著『バックラッシュ!』では、彼らの批判する本質主義的な議論を「バックラッシュ」として強く批判されている。だが、落ち着いて考えてみると、こういう形での批判は自己論駁的ではないかとの感が否めない。


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竹島の教科書叙述の根には、結構哲学的な問題がある

竹島の教科書記述の問題が起きているようだ。

高校で2013年度の新入生から適用される新学習指導要領をめぐり、文部科学省は25日、地理歴史などの解説書を公表した。日本の領土問題に関しては、韓国が実効支配する竹島は例示せず、地理A・Bで新たに「中学校における学習を踏まえる」と記述した。中学の解説書で竹島を明記した昨年と対応が分かれた。

現行の解説書と同じく、例示した領土問題は北方領土のみ。鈴木寛文科副大臣は、竹島に関し「中学で北方領土と同様に指導するとしており、高校でも指導がなされる」と説明した。

明記しない理由として、学校の裁量を増やすために指導要領などを簡潔にする「大綱化」を民主党が目指していることを挙げた。「領土問題をどう教えるかは、相手国に配慮すべきではない」とも述べ、韓国への配慮はなかったと強調した。時事通信


本論の前に一つ。とりあえず「学校の裁量」というのは意味が違うと思う。教育現場において裁量が発揮されるのは「どのように」教えるかの部分であって、「何を」教えるかの部分ではないはずである。教えるべき内容を「わかりやすく」教えるのは教師の腕であり、それを教える対象によって変えるのは教師の臨機応変さであるが、「何を」教えるかは教える対象に依存しないため、「何を」における裁量権は教師が好き勝手出来るということしか意味しない。

朝日新聞の社説によると

領土問題について、日本の立場を正しく学ぶのは自然なことだ。そのうえで、ほかの国と争いがあるものは、相手の言い分にも耳を傾ける姿勢が必要だ。中学、高校の新しい解説書は、そのことを強調しているとも読める。


具体的な教科書記述を見ていないのでなんとも言い難いのだが、ここで想定されている教え方はおそらく「日本は「竹島は日本領である」と、韓国は「竹島は韓国領である」と主張している」みたいなものだろう。だが、このありがちな叙述は、実は結構哲学的な問題を引き起こすように思う。

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「真の構造」論の罠

ちまたでしばしば聞くタイプの論に「世界は実は~の陰謀によって、そいつらに都合のいいように陰で動かされている」や「人々の~という行動は実は~という潜在心理が原因なのだ」のような論がある。これらの論をまとめて「真の構造」論と呼ぼう。というのも、両者とも「世界の隠された真の構造」を暴きたてるタイプの論だからである。

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哲学は普遍的たりえるか

哲学の中で、自我論とか人生論とかいう内容のものがある。だが、そうした哲学は普遍的なものと言えるだろうか。

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グッドマンのグルーのパラドックス

グルーのパラドックスとは、以下のようなものである。

今まで観察されたすべてのエメラルドは緑であったとする。そうすると、帰納的推測により、2009年に観察されるエメラルドも緑色だろうと確証することができる。

ここで、「2008年までに観察されれば緑色を指し、2009年以降ならば青色を指す単語」として「グルー」という語を導入すると、これまで観察されたエメラルドは緑色であると同時にグルーでもあることになる。つまり、エメラルドが緑であることとグルーであることとは同程度に確証されることとなり、2009年以降のエメラルドについては、帰納的推測によって緑ともグルー(=2009年以降なので青)とも同程度に確証されてしまう。

しかし、グルーとはいかにも不自然な単語ではないか、との反論に、グルーのパラドックスの提唱者グッドマンは以下のように反論する。時刻tまではブルーであり、時刻t以降はグリーンであることを意味する単語をブリーンとする。すると、グリーンは「時刻tまではグルーであり、時刻t以降はブリーンである」と定義しなおせる。このように、グリーンもまた同様に不自然な単語足りえるのである。グルーとグリーンの差は、我々がどのような言語をこれまで用いてきたかの差に過ぎない。

これをより一般化して、グッドマンは以下のように述べる。

任意の言明Sから始めよう。SSと任意の言明(それをSと呼ぼう)の連言の帰結であり、したがって、われわれの判断基準によれば、その連言を確証する。ところが、確証された連言SSは、もちろんSを帰結として持つ。そこで、すべての言明は任意の言明を確証するということになる。N.グッドマン『事実・虚構・予言』p114

さて、グルーのパラドックスへの一般的応答としては、「グルーというのが不自然であるのは、われわれが一般的に色は時間によって変化しない、ということを知っているからである」というものであろう。

だが、私はこの応答は不完全であると考える。

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ヘンペルのカラスのパラドックス

ヘンペルのカラスのパラドックスとは以下のようなものである。

「すべてのカラスは黒い」を確証したいとする。たくさんのカラスを調べてそのどれもが黒いことを確かめれば、「すべてのカラスは黒い」は確証される。

ところが、「すべてのカラスは黒い」の対偶は「すべての黒くないものはカラスでない」であるから、たくさんの黒くないものを調べてそのどれもがカラスでないことを確かめれば(例えば、この白い靴、青い服・・・をたくさん持ってくる)、「すべてのカラスは黒い」が確証されたことになる???

これに対する、よくある応答は以下のようなものである。

カラスでないものの数が少ない場合には、確かに対偶による方法はうまくいく。だが、我々はカラスでないものの方がカラスよりも圧倒的に多いことを知っているので、対偶による確証を不自然だと感じるのだ

この応答は、以下のような例を考えることによっても支持できるとする。

「本棚のすべての洋書にはブックカバーがかかっている、を確証したいとする。この場合、洋書でない本が少ない(=ブックカバーがかかっていない本が少ない)ならば、対偶をとって、すべてのブックカバーがかかっていない本は洋書ではない、を調べるのは合理的である」

だが、この応答は不完全なものだと思われる。

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フーコー『言葉と物』~エピステーメー論の臨界

フーコーは本書において、人間諸科学を考古学的に分析し、「主体としての人間」という発想が、19世紀のエピステーメーによって作られているものに過ぎないことを指摘する。そして、そうした人間諸科学を批判し、エピステーメーの転換が起きるときに

そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと(p409)

と衝撃的に言いきって筆を下ろす。

エピステーメーによって支持されているにすぎないものを絶対的真理と錯覚すること、それを科学と標榜する欺瞞、をフーコーは批判する。ただ、それであるならば何を取り上げてもいいだろうに、あえて「人間」という概念について取り上げたのは、彼が「真に主体と言えるのはエピステーメーであって、人間ではない」という考えを抱いているからなのは想像に難くない。

では、フーコーの主張の分析に移ろう。

まず、エピステーメーによる分析という方法論そのものが、重要な難点を抱えているように思われる。

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「悪魔の証明」に関する謬見

悪魔の証明、を、非存在の命題は主張者側は立証責任を負わない、という風に誤解されがちなきらいがあるので、そしてそれが特に懐疑主義的、相対主義的主張の論拠に使われているきらいがあるので、ちょっと書いておく。

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