憲法

憲法九条、立憲主義、そして憲法学

安倍政権の安保法案を巡る議論で「憲法がないがしろにされている」「立憲主義の危機」等の意見がよくみられる。憲法学者の圧倒的大多数も集団的自衛権を違憲と表明しており、安保法案は立憲主義に背くものだと批判されている。確かに、憲法学者の九条解釈に真っ向から対立しており、法案の中身の是非と無関係に憲法の軽視は許しがたい、という考えは一見非常にもっともらしい。
しかし、この素朴な見方が妥当となるためには、立憲主義と憲法九条の関係の妥当性、そして憲法学の九条をめぐる姿勢とその妥当性があることが前提になる。果たして、これらは単純に妥当だと言えるのであろうか。ここではその点をすこし考えてみたい。

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話題の自民党憲法案とその批判について、妥当性を考えてみる

自民党の改憲案がヤバいと随所で話題のようである。改憲案と対照表は自民党のHPにあるので、それを参照しつつ、ネットで見かけたいくつかの批判とその妥当性について考えてみたい。

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赤坂プリンスホテルと日教組の問題

日教組と赤坂プリンスホテルの問題で、判決が出たんで毎日新聞が社説で取り上げてる。

で、社説で「集会・言論の自由」を相変わらず書き連ねているので、それは違うだろ、と。

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憲法論議が封殺する「第三の道」

・改憲派の問題
改憲派の論拠としては、まず「憲法押しつけ論」が挙げられる。そもそも「押し付け」が何を意味しているかが論者によって大きく異なっている感が否めないので、一概に押しつけか否かは言いがたいが、とりあえず日本国憲法がGHQによる検閲下に制定されたものであり、その意味では日本国憲法は「押し付け」であろう。

だが、「押し付け」であるから何なのかと言っておきたい。押しつけであろうとなかろうと、憲法の規定する内容がよい内容ならばよい憲法だし、悪い内容ならば悪い憲法である。したがって、改憲を訴えるならば憲法の内容に関して取り上げるべきであり、制定過程を取り上げるのは関係のない問題を取り上げて議論を混乱させるだけである。

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迷走する憲法論議

憲法記念日なので、過去に別の場所で書いた文章をそのまま載せます。(これは2年前のもの)

・護憲派の限界
まず現行憲法九条の絶対平和主義の可能性について検討していく。
この絶対平和主義というのは、「侵略なんてされっこない」というような「平和ボケ」などではまったくなく、相手の侵略にたいしてはデモなどによる徹底した非暴力行動を行うものである。それはつまり、どんなに殴られても殴り返さない、横の人が殺されてもじっと耐えるという、ガンジーのような崇高な思想なのであり、それは多大な自己犠牲をともなうものなのである。

しかし、現実には護憲派はこのような犠牲を引き受けようとしているのであろうか。口先だけでならばいくらでも絶対平和主義などといえるが、実際は自衛隊とアメリカに守られており、そのリスクを負っていない。例えば、愛敬浩二は絶対平和主義を標榜するとしながらも、護憲の現実性を語るときに、完全な絶対平和主義のみを想定し、あらゆる軍隊を廃棄するよう考えることは、護憲の範囲を不当に狭く扱っているという。そして、護憲派がこのように絶対平和主義を主張し続けたからこそ、日本の軍拡はこの程度で済んでいるのだから、九条には価値があるという(『改憲問題』参照)。要するに、こうした「絶対平和主義者」は、「実現することはないのだから、何を言っても平気」という状況に陥っており、九条は自身の政府批判政治運動に都合がいいから残しておこう、といっているに過ぎない。これでは、現実に国民を、国家をどうするかといった問題を完全に放棄しており、憲法をただの政府批判の道具としかみなしていない。

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伊藤真『憲法の力』~通俗憲法書批判3

第1章

筆者は

こういった日本国憲法の改正手続きとその硬性さを十分に理解した上で、私は国民投票法の制定を急ぐべきではない、という立場から(後略)(p30)

と述べる。だがここで間違っているのは、憲法が硬性であるというのはあくまでも全議員の3分の2を要するという点のみにかかっているものであって、憲法が硬性だから、3分の2発議「以外」のところも慎重にしなければならない、などという結論はどこからも出てこないという点である。

なお、筆者は憲法を権力を縛る道具と考えているようだが(p28)、それが短絡的であることは、拙稿渋谷秀樹『憲法への招待』(上)を参照していただきたい。

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愛敬浩二『改憲問題』~通俗憲法書批判2

第1章 押し付け憲法論批判

筆者の、憲法が押し付けでないとする論拠は

1 押し付けはどこででも起きている(例:南北戦争後の奴隷解放)(p33~36)

2 押し付けられた当の政府は押し付けを歓迎している。(p43~44)

3 国民は憲法を歓迎した(p44~46)

の3つである。以下順に反論しよう。

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渋谷秀樹『憲法への招待』(下)~通俗憲法書批判1

5 外国人にはなぜ参政権がないのか

まず本書では、以下のように述べて、外国人参政権は認められるとする。

地域への事実上の帰属関係がありさえすれば、国籍がなくても、地方参政権を認めることを憲法は禁止していない、つまり法律でそれを認めることができると行ったのです。

(中略)つまり、「ある地域に住む国籍保有者+ある地域の居住者」→「住民」→地方参政権、という図式がそこでは成り立つからです。そして、この論理は、国政レベルでも地方政治レベルでも質的な違いはないはずです。(p40~41)

憲法上、地方自治体の外国人参政権を認めることができるという点については同意してもいい。しかし、そのことは、外国人参政権を認めるべきだということをいささかも意味しない。

なお、国政への参政権は認められない。これは筆者自身が引用した判決でいっているではないか。ところが筆者は、

(前略)判決の論理を貫徹すると(中略)地方参政権は否定されるはずです。

ところが、最高裁はそうは言いません。(p40)

と言って、論理の貫徹とやらを行って国政レベルでも認められると言い張る。だが、論理を貫徹すると地方参政権も否定されるのなら、地方参政権が否定されるという結論を導いてもいいはずである。筆者が論理的に見て判決が矛盾していると思うのならば、そのような判決は引用すべきでない。だが筆者が行うのは、矛盾した判決を都合よく解釈し、「最高裁判決」という威光を借りるという行為だ。自己都合的にしか判決を用いないのなら、最初から判決を持論のサポートとして用いるべきではない。

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渋谷秀樹『憲法への招待』(上)~通俗憲法書批判1

必要のため、要点を絞る。

3 憲法は私たちが守らなくてはならないものか

本書の考え方は以下のようなものである。

憲法は誰を支配し、誰が守らなくてはならないものか、以上のことから、もうお分かりでしょう。言うまでもなく、それは、統治活動にあたる者なのです。憲法のどの条項にも一般市民に憲法を守れと命じた規定がないのは、「法の支配」の考え方からして、当然の帰結なのです。(p21)

こうした「憲法は国民を縛るものではなく、実は政府を縛るものなんだよ」という話は、少し気の利いた憲法書だとよく乗っている話である。

しかし、こうした論はある面では正しいものだが、問題がある。それは、政府と国民を対立図式でとらえている点だ。マグナ・カルタの時代ならば、王は国民から独立した形で存在していたから、そのとらえ方でもよかっただろうが、今日ではその方法ではうまくいかない。政府は民主的なプロセスにおいて選ばれた代表であるため、国民と政府というのは対立しているものではなく、裏でつながっているものなのだ。

そうすれば、立憲主義の本質もわかるだろう。立憲主義とは、民主主義による決定を制約するものなのだ。たとえ投票によって国民の多数に支持されていたとしてもなお、その決定にストップをかけるのが立憲主義の発想である。だから、国民と政府とを対立的にとらえるのは12世紀のイギリスのような状態にしか当てはまるものではない。そして、立憲主義が上記のようなものである以上、国民もまた憲法による制約を受けるのは当然のことといえよう。

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