歴史

戦後補償問題と謝罪について

バターン死の行進について、米兵被害者を平和交流の企画に招待するらしい。それ自体はあまり関心ないのだが、問題はその解説部分

◇戦後和解への一歩
日米間では、捕虜問題のほかにも米国による原爆投下や都市への無差別空襲で、戦後和解の議論が政治レベルでは事実上封印されてきた。背景には強固な日米同盟や、互いの賠償請求権を放棄したサンフランシスコ平和条約(1951年調印)の存在がある。
だが戦後半世紀以上が過ぎ、藤崎駐米大使が元捕虜に直接謝罪したほか、ルース駐日米大使が8月6日の広島での平和記念式典に米代表として初出席を決めるなど「誠意の問題」としての歩み寄りは兆しが見え始めている。その意味でも、元捕虜の招待事業は、和解への大きな一歩になる。
ただ捕虜問題では、日本企業側は沈黙を続けており道半ばだ。強制労働について日本企業を相手取った米国での損害賠償請求訴訟で敗訴したテニーさんは「法的責任はなくとも道義的責任はあるはず」と訴える。日本企業が招待事業を続けるための資金を提供するなど方法はある。
過去の責任を問われれば、身を守ろうと否定的な考えになりがちだ。だが問題解決を先送りすれば、結局は未来にも禍根を残すのは明らか。歩み寄りの道がないか日本企業も考える必要があり、双方が和解とは何かを考えるきっかけにすべきだ。【隅俊之】(毎日新聞:「バターン死の行進:68年 元米兵捕虜、初の招待 政府、9月に6人」

この問題そのものというより、これは戦後補償や謝罪の問題で繰り返し見る構造なので、この問題に絞らず以下では論じたい。特に「企業への批判」よりは「日本(政府)への批判」の方が一般には多いので、それを念頭に置いて論じていく。

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日中共同歴史研究の根本の問題

個別個別の歴史事実を論ずるのが瑣末だと先日の記事で書いたので、根本的な問題の方について書いておこう。

まず、そもそもなぜに共同で歴史を研究しなければならないか、という点をきちんと考えたい。一口に「歴史」と言ったが、「歴史」には、事実として何が起き たかという「史実」の問題と、どの史実をどのように一本の話として紡ぎあげるかという「叙述」の問題がある。後者はいわゆる歴史教科書問題で「~を美化し ている」「~を悪く書きすぎだ」「~を教科書に載せるのはおかしい」等々の形で出てくる類の問題である。

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南京事件に関する数についての不毛な論争

日中歴史研究報告書が発表されたらしい(時事ドットコム)。ここで南京事件についても触れられていて、いろいろの場所で取り上げられているようなので、個人的には瑣末な問題だとは思うのだが、誤解も蔓延っている問題なので簡単に整理しておこう。

まず日本側が「20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」と主張したとあって、一方の中国側は30万人(判決文の引用という形しか記事には載っていないので確証は出来ないが、過去の中国側の発言からはそう考えるのが自然)と主張している。20万と30万ならほどほどには近いのかな、と思うと大きな落とし穴がある。この二つは南京事件の定義が違っているのである。


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戦争体験者の死滅

戦争体験者が死亡し、戦争体験者がいなくなることは世間一般では「よくないこと」だとされているようだ。もちろん人が死ぬことはよくないことだが、逆に言うとそれ以上の意味で、つまりまさしくその人が戦争体験者であるがゆえに、よくない、ということは本当にできるのだろうか。

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東京「裁判」というミスリーディング

東京裁判を「裁判」と呼ぶのが、東京裁判をめぐるさまざまな議論の混乱の元凶だと思う。

極東国際軍事裁判は、読めばわかるように「軍事裁判」(=軍律法廷)なのだが、そもそも軍事裁判というのはいわゆる「裁判」とは全く違う。

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日本は侵略国家であったか、などを論ずる前に

まず侵略の定義をきちんと決めるべきだろというのは、非常に常識的な発想だと思うのだが、そういう定義をきちんとしてから議論が始まった試しがほとんどない。定義がきちんとしてなかったらダブルスタンダードをやって自分の好き勝手な結論を導けてしまうにきまってるじゃないか。

で、欧米の戦争と日本の戦争との対比みたいなのがよくなされるけど、ごく普通に考えれば

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石射猪太郎『外交官の一生』~戦後的外交の命運

石射の外交姿勢は、よく言えば謙虚、悪く言えば卑屈なものだといえよう。彼は他国との対立が起きた際に日本へ反省を促すことが多い[1]し、日中関係を「中日」関係と書く[2]点にも不自然な卑屈さが見てとれる。この点や、友好・平和・非介入主義的な幣原外交を非常に高く評価し、逆に田中外交以降を強く批判している点などから、石射の外交に対する高度倫理性を垣間見ることができよう。

だが、こうした姿勢は一般市民にとっては見上げるべき姿勢かもしれないが、外交において望ましい姿勢なのかは疑問が残る。

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小熊英二『単一民族神話の起源』と、民族本質主義の迷宮

以下では2方向からの反論を行いたい。1つは事実認定の問題、もう1つは分析手法の問題である。

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