倫理

生物多様性について

今年はどうやら生物多様性の年だとかなんかで、本やニュースでもやたら生物多様性が特集されているらしい。だが、「生物多様性を守れ」とばかりに動いているアピールには正直疑問を禁じ得ない点もある。先日のNHKの朝のニュースで、「外来種のザリガニが増えることで、昔から地元にいたトンボが激減している」ということを「生物多様性の危機」として報じていたのだが、いろいろと違和感を持った。

トンボとか他にはホタルとかを守ろうとするこういう試みはいいと思うのだが、単刀直入に言ってしまえば「そうした運動はトンボとかホタルを守るためのものであって、別に生物多様性云々は関係ないんじゃないのか」ということである。

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戦後補償問題と謝罪について

バターン死の行進について、米兵被害者を平和交流の企画に招待するらしい。それ自体はあまり関心ないのだが、問題はその解説部分

◇戦後和解への一歩
日米間では、捕虜問題のほかにも米国による原爆投下や都市への無差別空襲で、戦後和解の議論が政治レベルでは事実上封印されてきた。背景には強固な日米同盟や、互いの賠償請求権を放棄したサンフランシスコ平和条約(1951年調印)の存在がある。
だが戦後半世紀以上が過ぎ、藤崎駐米大使が元捕虜に直接謝罪したほか、ルース駐日米大使が8月6日の広島での平和記念式典に米代表として初出席を決めるなど「誠意の問題」としての歩み寄りは兆しが見え始めている。その意味でも、元捕虜の招待事業は、和解への大きな一歩になる。
ただ捕虜問題では、日本企業側は沈黙を続けており道半ばだ。強制労働について日本企業を相手取った米国での損害賠償請求訴訟で敗訴したテニーさんは「法的責任はなくとも道義的責任はあるはず」と訴える。日本企業が招待事業を続けるための資金を提供するなど方法はある。
過去の責任を問われれば、身を守ろうと否定的な考えになりがちだ。だが問題解決を先送りすれば、結局は未来にも禍根を残すのは明らか。歩み寄りの道がないか日本企業も考える必要があり、双方が和解とは何かを考えるきっかけにすべきだ。【隅俊之】(毎日新聞:「バターン死の行進:68年 元米兵捕虜、初の招待 政府、9月に6人」

この問題そのものというより、これは戦後補償や謝罪の問題で繰り返し見る構造なので、この問題に絞らず以下では論じたい。特に「企業への批判」よりは「日本(政府)への批判」の方が一般には多いので、それを念頭に置いて論じていく。

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非人道兵器の人道性

通常非人道兵器と呼ばれる兵器、BC兵器、地雷、ダムダム弾、毒ガス等は、通常兵器と比べても非人道的であるとされ、戦闘での使用が禁止ないし制限されている。だが、本当に非人道兵器は人道的でないのだろうか。

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鳩山の二酸化炭素25%削減と、国際社会における「倫理」

鳩山は、2020年に二酸化炭素90年比25%減を掲げているらしい。

いまだに日本に不利な90年比という基準を用いているのはさておき、この行動の意味がわからない。

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脳死と臓器移植について

とりあえずこの問題は何点かの論点が混在していると思う。簡単に分けても「科学的観点から死はどう規定できるか」「社会的観点から死はどう規定すべきか」「臓器移植はいかなる場合にどのように認められるべきか」などの点がある。

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平和運動の盲点

平和運動家は、「平和の敵」を探してきて、それを「絶対的な悪」として徹底的に批判するのが好きらしい。しかし、絶対的な悪を容赦なく叩くのは聖戦と同じ状態に陥っている。カール・シュミットも指摘しているが、戦争は正義と結び付けられたときに、敵への同情が完全になくなり、限定的で歯止めのあった戦争が完全な殲滅戦へと陥る。過去の戦争の話でも現在の戦争の話でもいいが、誰かを「悪魔」に設定するのは、皆殺しの正当化まであと一歩である。

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テイラー『<ほんもの>という倫理』~道徳性への達成の限界

テイラーの擁護する<ほんもの>という理想は、端的にまとめれば「自分自身の内なる道徳的要請に忠実になり、自己達成を目指すようにせよ」となるだろう。

そして、そうした<ほんもの>への批判を再反論していく形で<ほんもの>という理想を擁護する。

まず、<ほんもの>という理想、を穏やかな相対主義やナルシシズムへと結びつくとして批判する人々、具体的にはブルームやベル、に対しては、その批判は<ほんもの>という理想の堕落した形態を批判しているにすぎないとする。自己の道徳的要請は、好き勝手な欲求とは異なるものであるし、また他者との関係も自己達成の本質を占めるため、他者を軽蔑的に扱うナルシシズムとも異なると論ずる。

一方で、<ほんもの>という理想の堕落そのものも厳しく批判し、<ほんもの>という理想がきちんと実現されるように呼び掛けていく。

さて、筆者の論の弱さは、<ほんもの>という理想、が積極的な形では定式化しきれていないことであろう。

堕落した形態のアンチとして形作られ、また「道徳」や「理想」という表現を付加することでしか特徴づけられていないため、具体的に<ほんもの>という理想がどのようなものなのかがはっきりしない。そのため、批判されるようなものを「堕落した形態」として切り捨てているだけとも受け止められてしまうだろう。

そしてそもそも自己の道徳的要請に従って、というのは、まさしく「自分が善だと信じるところが善だ」というムーア的な主観主義的倫理論に(堕落でも何でもなく)陥っているといえるだろう。

そもそもそうやって純粋に自己達成をしていこうとすればうまくいくというのは、いささかオプチミスティックすぎる。宗教戦争的なものは、無論利害感情もあろうが、自己の信奉するところにしたがって対立は発生しているといえる。そうした問題に対して、<ほんもの>という理想はあまりにも無力、いやむしろ対立をあおってしまう、といえるのではなかろうか。

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医師と決断と金銭至上主義のジレンマ

あなたが医師だとしよう。目の前に患者が二人いる。二人ともあなたとは縁がない人だ。症状は同じだ。どちらも放っておくとすぐに死んでしまうぐらい重症だ。

だが薬は一つしかない。

あなたは決断を下さねばならない。下さなければ両方死んでしまうのだから。

だが、いったいあなたはどうやって決断を下しうるだろうか。

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倫理は成立するか

まず、倫理は、その行動を倫理性を論拠にして自覚的に選び取って、はじめて倫理的であるといえる。これは、たとえよい行いをしていても、そのように行うのが「先生に言われたから」だと、倫理的とは呼べないのと同じである。

ゆえに、倫理的行動は、「自分は倫理的に潔癖でありたい」と欲し、それを実行することで初めてとられうる。

さて倫理は、自己に執着することを放棄し、他者のために行動することを要求する。

そのため、自分は倫理的な悪を冒すことにはなるが、他者から見れば必要な行動については、倫理自身に要請によって、自己の倫理的潔癖性への欲求は放棄させられる。倫理は、自分の状況がいかなるものかへの固執を切り捨てるからだ。

(なお、「自分は倫理的な悪を冒すことにはなるが、他者から見れば必要な行動」の例として、あなた自身がAを殺すか、さもなくばあなたは何もしない代わりにAを含めた多数の人間が死ぬかの状況を与えておこう。倫理の要請は後者になるが、他者の要請は前者であり、自己の倫理的潔癖性への欲求を捨て去った状況では前者が選択されるだろう)

しかしこのことは、倫理が行動の基準として放棄させられたことを意味する。

つまり、倫理は、倫理自身によって究極的状況では倫理を破壊してしまうことになる。

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