テイラーの擁護する<ほんもの>という理想は、端的にまとめれば「自分自身の内なる道徳的要請に忠実になり、自己達成を目指すようにせよ」となるだろう。
そして、そうした<ほんもの>への批判を再反論していく形で<ほんもの>という理想を擁護する。
まず、<ほんもの>という理想、を穏やかな相対主義やナルシシズムへと結びつくとして批判する人々、具体的にはブルームやベル、に対しては、その批判は<ほんもの>という理想の堕落した形態を批判しているにすぎないとする。自己の道徳的要請は、好き勝手な欲求とは異なるものであるし、また他者との関係も自己達成の本質を占めるため、他者を軽蔑的に扱うナルシシズムとも異なると論ずる。
一方で、<ほんもの>という理想の堕落そのものも厳しく批判し、<ほんもの>という理想がきちんと実現されるように呼び掛けていく。
さて、筆者の論の弱さは、<ほんもの>という理想、が積極的な形では定式化しきれていないことであろう。
堕落した形態のアンチとして形作られ、また「道徳」や「理想」という表現を付加することでしか特徴づけられていないため、具体的に<ほんもの>という理想がどのようなものなのかがはっきりしない。そのため、批判されるようなものを「堕落した形態」として切り捨てているだけとも受け止められてしまうだろう。
そしてそもそも自己の道徳的要請に従って、というのは、まさしく「自分が善だと信じるところが善だ」というムーア的な主観主義的倫理論に(堕落でも何でもなく)陥っているといえるだろう。
そもそもそうやって純粋に自己達成をしていこうとすればうまくいくというのは、いささかオプチミスティックすぎる。宗教戦争的なものは、無論利害感情もあろうが、自己の信奉するところにしたがって対立は発生しているといえる。そうした問題に対して、<ほんもの>という理想はあまりにも無力、いやむしろ対立をあおってしまう、といえるのではなかろうか。
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