チュニジア、エジプト、あるいは民主化の波は来るのか
チュニジアで大統領が追い出され、エジプトでもムバラク大統領への批判が高まっていることもあり、「アラブ・アフリカ圏の抑圧的体制下に民主化の波か」という見方や機運も高まってきているようである。だが、そういう単純な見方ではいくつも見落とされている点があるように思う。
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チュニジアで大統領が追い出され、エジプトでもムバラク大統領への批判が高まっていることもあり、「アラブ・アフリカ圏の抑圧的体制下に民主化の波か」という見方や機運も高まってきているようである。だが、そういう単純な見方ではいくつも見落とされている点があるように思う。
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さて、そもそもの問題に移ろう。「一票の格差」というと最高裁も違憲判決を出したこともあるぐらいなので、問題だというのが一般的認識である。だが、そもそも「一票の格差」はなぜ問題なのだろうか。
まず、政党の観点から。政党の得票数と議席数の逆転が起こりうるという、すでに見たような批判がある。だがこの批判は、政党の選挙対策によって消滅させることが可能で、さらに前の記事で述べたように、政党という観点からは一票の格差よりもはるかに大きな「立候補者の不在」という問題を解決しなければならないにもかかわらずそれをしていないという自己矛盾があるので、この観点は説得力ある形では展開できない。
では、政党という縛りをかけずに、マクロで当選した候補者同士の背景にある票の数の違いを考えたらどうだろうか。つまり、有権者200万人の選挙区から120万票集めて当選したAと、100万人の選挙区から60万票集めて当選したBとの(政党を抜きにした)純粋な比較である。一見Aの方が、より多くの人を背景に据えているので重みがあるように見える。しかし、本当にそうだろうか。ある一定地域内に、ある候補者の主張や姿勢に共鳴してくれる人の割合は恐らく一定だろう。だとすると、もしBが2倍の人数である200万人の選挙区を対象に同様の主張を行い選挙活動をしたならば、2倍の票数である120万票を集められたと考えるのが妥当である。ならば、Bの方がAより信頼に足らないと考えることには何ら根拠はない。
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今回の参院選は民主の惨敗に終わった。しかし、この結果については、必ずしも民主の敗北、自民の勝利を意味してはいないという声が、特に「一票の格差」を問題視する視点から挙がっている。
普段から政局に鈍感な私は、およそ選挙の結果について語る立場からはほど遠い。しかし、その選挙の素人でも思わず気になったのが、得票数と当選者数のねじれ現象である。
今回の参議院選挙では、選挙区・比例代表を合わせた総得票数で民主党が自民党を大きく上回った。それにも関わらず、獲得議席(改選議席数)で自民が民主を逆転したのは周知の通りだ。先の衆議院選挙で、民主党が得票比率を大きく上回る大勝を遂げたのとは実に対照的である。
もちろん、このパラドキシカルな現象の背景に横たわるのは、衆参両院における選挙制度の違いに他ならない。これは、過去2回の国政選挙を通じて、多くの有権者が「選挙制度の違いが政局や国政を実際に大きく左右しうる」という教訓を学んだことを意味する。(SYNODOS「シノドス参議院アンケート(2) 安田洋祐」)
制度の欠陥が、ゆがんだ結果をまた生んだ。 参院選が今回改めて警告している。 「一票の格差」が大きすぎる。
今回の選挙区での最大格差は、神奈川県と鳥取県の間の5・01倍だった。 神奈川では69万票を集めた民主党候補が落選、鳥取では15万票台の自民党候補が当選した。大阪や北海道、東京、埼玉、愛知では50万票を超えた人が敗れた。最少の13万票台で勝てた高知や、20万票以下で当選した徳島、山梨などとの「一の価値の不平等」は歴然だ。
全選挙区での総得票数と議席数を比べてみても、深刻さが浮かぶ。民主党は2270万票で28議席を得た。 一方、39議席を獲得した自民党は約1950万票にすぎなかった。民主党は「軽い一票」の都市部での得票が多く、自民党は人口が少なくて「重い一票」の1人区で議席を積み上げた。票数と議席数の関係のゆがみは一票の格差の弊害そのものだ。
選挙区でも比例区でも民主党を下回る票しか集められなかった自民党は、果たして本当に勝者と言えるのか。 そんな疑問すら抱かせる結果である。(朝日新聞社説「一票の格差――選挙結果ゆがめた深刻さ」)
こうした、日本全体でみた政党の総得票数と議席数の乖離を批判する声は一見もっともらしいが、実はいろいろと問題がある。
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池田信夫blog「政治の最小化」という記事に、以下のような記述がある。
公的意思決定は経済学でも厄介な問題で、センは半世紀にわたる研究の結果、一義的な社会的意思決定を放棄し、多様な基準の中で相対的にましな状態を試行錯誤で選ぶしかないと結論している。個人の意思を投票で集計する民主主義には本質的な欠陥があるので、必要なのは公的意思決定をなるべく政治にゆだねない制度設計である。
最近、「ネットで直接民主主義を実現する」とかいうくだらない議論があるが、重要なのは政治に参加することではなく、政治が個人の生活に干渉する領域を最小化することだ。ポズナーも指摘するように、人生には政治より大事なことがたくさんあるのだから。(強調ママ)
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小沢幹事長がこの件について記者会見した。(読売新聞)
民主党の小沢幹事長が14日夕の定例記者会見で、天皇陛下と中国の習近平国家副主席との会見に関して述べた内容は以下の通り。
――皇室外交について、どのような考えを持っているか。
【小沢氏】どういう意味?
――習副主席が来日したが、天皇陛下との会見が30日(1か月)ルールにのっとらない形で行われることになった。
【小沢氏】30日ルールって誰が作ったの。知らないんだろ、君は。
――2005年に。
【小沢氏】法律で決まっているわけでもなんでもないでしょ、そんなもの。それはそれとして、君は日本国憲法を読んでいるか。天皇の行為は何て書いてある。それはどういう風に書いてある、憲法に。国事行為は、内閣の助言と承認で行われるんだよ。天皇陛下の行為は、国民が選んだ内閣の助言と承認で行われるんだよ、すべて。それが日本国憲法の理念であり、本旨なんだ。だから、何とかという宮内庁の役人がどうだこうだ言ったそうだけれども、全く日本国憲法、民主主義というものを理解していない人間の発言としか思えない。ちょっと私には信じられない。しかも内閣の一部局じゃないですか、政府の。一部局の一役人が内閣の方針、内閣の決定したことについて会見して、方針をどうだこうだと言うのは、日本国憲法の精神、理念を理解していない。民主主義を理解していないと同時に、もしどうしても反対なら、辞表を提出した後に言うべきだ。当たり前でしょう。役人だもん。そうでしょう。だからマスコミがそういうところを 全然理解せずに、役人の言う通りの発言を報道ばっかりしていてはいけません。ちゃんとよく憲法を読んで。そして、天皇陛下のお体がすぐれないと、体調がすぐれないというのならば、それよりも優位性の低い行事を、お休みになればいいことじゃないですか。そうでしょ、わかった?
――天皇陛下の健康上の問題にかかわらなければ、1か月ルールはよろしいとの認識か。
【小沢氏】1か月ルールというのは、誰が作ったんですか、というんですよ。
――なくてもいいものだと。
【小沢氏】なくてもいいものじゃない。それ、誰が作ったか調べてからもう一度質問しなさい。私は、何でもかんでもいいと言っているんじゃないんだよ。ルールを無視していいと言っているんじゃないよ。宮内庁の役人が作ったから、金科玉条で絶対だなんて、そんなばかな話あるかっていうことなんですよ。 天皇陛下ご自身に聞いてみたら、手違いで遅れたかもしれないけれども、会いましょうと、必ずそうおっしゃると思うよ。わかった?
――小沢幹事長が平野官房長官に、習副主席と天皇陛下の会見を要請したと報道されている。事実関係はどうか。また、天皇陛下の政治利用だという議論が起こっているが、どう考えるか。
【小沢氏】君も少し、憲法をもう一度読み直しなさい。今、説明したじゃないですか。天皇陛下の国事行為、行動は、国民の代表である内閣、政府の助言と承認で行うことなんですよ。それじゃ、国事行為は全部、政治利用になっちゃうじゃない。諸君の理解がまったくおかしいんだよ、マスコミの。そうでしょ。何をするにしたって、天皇陛下は内閣の助言と承認でと、それは憲法にちゃんと書いてあるでしょうが。それを政治利用だといわれたら、天皇陛下は何も できないじゃない。じゃあ、内閣に何も助言も承認も求めないで、天皇陛下個人で行うの? そうじゃないでしょう。
――平野官房長官に要請したかどうかの事実関係だけ教えてほしい。
【小沢氏】事実関係だけというなら、先の質問は勉強してから聞きなさい、もう少し。さっきも言ったけど、政府の決めることですから、私が、習副主席と天皇陛下を会見させるべきだとか、させるべきでないとかというようなことを言った事実はありません。
――明日予定されていた幹事長と習副主席の会談が中止になったそうだが、この経緯は。
【小沢氏】予定していたわけではございません。ただ、会いたいという連絡は、あったそうですけれども。非常にお忙しい日程で、3日間で、いろんな方とお会いするでしょう。私は中国に行ってきたばかりですし、お忙しいだろうと思って、ご無理なさらんでもよろしいと。
(2009年12月14日21時26分 読売新聞)
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政治において求められる判断というのは、国益や人権の理念等の判断材料をもとにして、有限の資源をどのように配分するか、そしてどういう政策を実行するか、を合理的に考えるものである。
ここにおいて主体として立てられているのは一個人ではなく、あくまでも集団全体である。我々の判断も、自分自身の視野ではなく、「集団全体のことを考えるとどうなるか」という基準で判断されねばならない。
そして、自分自身の感情と、集団全体の合理性とはしばしば衝突する。たとえば、自分自身は税金を払うのは嫌だが、集団全体で見たら税金は明らかに必要である、などというのがそれである。このような場合には、我々は自分自身の感情に基づくのではなく、集団全体の利益を合理的に考えて決断を下さねばならない。この程度のことは分かっているという人は多いだろうが、この感情の問題は実はもっと根深い。
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民主党小沢代表の党パーティーにおける発言
小沢氏は「世界の中で日本は民主主義国だと日本人は思っているが、外国では、政権が一度も変わったことのない日本を民主主義国家だと思っているかどうかは疑問だ」と述べ、次期衆院選で民主党が勝利し、政権交代することの必要性を訴えた。(イザニュース)
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小泉自民党を支持していたのなら、自分が掲げた郵政民営化を支持するのが当然で、それに反対するとは何事か、的なことを言っていたのはどこの誰だよという問題はひとまず置いておくが、それにしても何なんですかあれは。
まず、「3分の2を使うほどの内容か」的なことを述べていたが、まず法理上は3分の2の規定には特殊な留保は付けられておらず、通常の過半通可決と同等のレベルにある。「特別の場合」とか「緊急の場合」とかの留保が付けられた権限の発動ならば、「内容は妥当だがそうした例外に該当する内容ではない」として批判することは可能である。たとえばある立法が公共の福祉のもとに一部の人の財産権を制限する場合、その立法の内容は望ましいものだが、「公共の福祉を理由に財産権を侵害するほどのものでもない」という批判はありうる。だが3分の2規定はそうした条項は存在しないため、単純な過半数可決と同等の位置にあり、このような形での批判は当たらない。(というか規定された集団的意志決定方式に「~するほど」っていうのは間違ってるわけで)
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「審議が尽くされていない」と言う前に、とりあえず「じゃああなたたちにとって審議が尽くされている状況というのは何なのさ」ということを明らかにしてほしいものなのだが。結局「自分たちの要求が認められている状況が審議が尽くされている状況だ」というあたりに落ち着くなら、最初に意見が違っていた段階で審議が尽くされるわけがないではないか。
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バーバーの前半の分析、予防戦争ではテロに勝利できないというのはおおむね同意する。その骨子として
・予防戦争は国家を対象とするが、テロリストは国家ではない
・テロの目的は対象国民を恐怖に陥れることであり、予防戦争はその目的に加担してしまう
・抑止もまた、アメリカのとる例外主義においてはその力を発揮できない(抑止というのは、抑止者側の行動に明確な規則があって初めて成立する)
だが、予防戦争の対案として彼の提案する予防民主主義は、そこまで力を発揮するとは思えない。
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