数学

3×5と5×3を小学校教育で分けることについて(追記)

先日の記事、「3×5と5×3を小学校教育で分けることついて」に@t_udaさんから鋭い指摘をいただいたのでそれに絡めて追記

結論に至る重要な部分の数学的記述が不正確なように思われるので突っ込ませて下さい。

> "一般に「pをq回足すこと」と「qをp回足すこと」が同一の結果となることは、積の可換性、p×q=q×pを用いなければ示すことはできない。"

これは嘘ですね。抽象的な代数として「pをq回足したもの」を p×q の定義とするならば、×の可換性は示せます。もっとも、帰納的な「証明」(と自然数の加法の定義)が必要なので、結局小学校レベルの算数を逸脱してしまいますが。

もともとの私の書き方自体が不正確であったのもあるが、このコメントは帰納的な方法による可換性を示す方法の可能性に言及したものと理解できる。実際こうした帰納的方法は先日の記事を書いた段階ではあまり考えていなかったので、この点について突っ込んで考えてみる。

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3×5と5×3を小学校教育で分けることについて

Twitterで話題となっていた「かけ算の5×3と3×5って違うの?」という議論がある。発端はこの日記らしく、ここではかけ算の順番の意味として「かける数」と「かけられる数」の意味的な差異を中心として論じている。これについては考え方の押し付けである、子供の芽をつぶす等さまざまな議論がなされたが、論点の食い違いや主観的議論のためになかなか噛み合っていないように見受けられた。そこで、かけ算の順序の区別が指示可能であるとしたら、クリアしなければいけないポイントを絞ると

1:(小学校レベルで出現する範囲の問題での)数学的体系としての妥当性
2:掛け算を教える教育手法としての妥当性

の二点が論点になると考えられる。ただ、2については個人差も大きく、論者の主観によるところも多くなるのでこの部分は最低限に絞り、主に1について論ずることとする。

まず、「かけ算の順序を区別すべきでない」とする側の論として、演算としては5×3と3×5は等しいという点を挙げる人が多いように見えたが、これは外延と内包の混同であると思われる。外延と内包を区別しないと議論が混乱するので、ここで一度整理しておこう。
「外延」というのは、そこで指示されたカテゴリに具体的に何が属するか、という、いわば結果を問題とした視点である。他方、「内包」というのは、指示の具体的な意味に着目した視点である。例えば、地球上の生物で、腎臓を持つ生物はすべて心臓を持ち、またその逆も正しかったとしよう。この場合、「腎臓を持つ生物」と「心臓を持つ生物」は、その集合の要素は全く同一である。だが、にもかかわらずこの二つの指し示す意味は異なっている。この場合は、外延は同一だが内包は異なる状況となる。
さて、「5×3」と「3×5」について、その区別を擁護する人々はその内包の差異、すなわち意味の差異を問題にしていた。これに対し「どちらも同じ15だ」という応答は、その外延が等しいことを示しているにすぎないので、この応答は妥当だとは言えない。

では、かけ算の順序の区別は妥当なのだろうか。しかし、そういってよいかどうかは、もう少し考えてみる必要がある。それは、この方法で数学的にきちんとした体系となっているかどうかのチェックである。

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理性の限界?(2)~不完全性定理

さて今回はこれまた誤解の多い不完全性定理について取り上げる。

完全性定理については、本書ではわりと正しく書かれている。

簡単に言えば、論理の世界では、「真理」と「証明」が同等だということです。論理的に真理であるということは、公理系で証明できるということと同じであり、その逆もまた成立するということです。(p219)

ところが、そのあとの説明でいきなりおかしな方向へ行く。

ところが、数学の世界では、「真理」と「証明」が同等ではないわけです。つまり、数学の世界には、公理系では「汲みつくせない」真理の存在することが明らかになったわけです。このことを証明しているのが、「自然数論の不完全性定理」なのです。(p219)

一方の不完全性定理については以下のように説明される。

論理学者 それでは、ここで不完全性定理の結論を述べましょう。一般に、システムSが正常であるとき、真であるにもかかわらず、Sでは証明可能でない命題が存在します。(p224)

まず確認しておかなければならないことは、完全性定理の「完全」と、不完全性定理の「完全」とでは意味が全く違うということである。

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数学の教科書としてさすがにこれはいただけない。(浅田彰『構造と力』におけるクラインの壺)

金子昇『数理系のための基礎と応用 微分積分Ⅱ』におけるクラインの壺についての説明の註に次のように書かれている。

継ぎ目に丸みを付けないで書く流儀もある。浅田彰『構造と力』という哲学書の表紙にはそのような図がちりばめられており、70年代の女子学生はこの本をファッション代わりに持ち歩いていた。(p188)

とりあえず『構造と力』って1983年に発売された本だよね、っていう点もあるんだが、それより問題なのは、浅田の用いたクラインの壺が数学的に誤っているとして批判されネット上で論争になっていたという点だ。

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