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差別論の構造~人工知能学会誌の表紙問題

 人工知能学会誌の表紙が女性差別だとして批判を浴び、一方でそのような批判は過剰反応だという再批判も起きている。

 人工知能学会の表紙は女性蔑視?

 コメント欄やその後のtwitter等での展開を見ても、ともに感情的に相手を罵るだけの発現が多く、あまり建設的とはいえない状況であった。しかし、ついにやっと堅実な形での表紙への批判記事が現れた。

 人工知能学会関係者の皆様へ 

 これはきちんと議論するに値する問題提起だと思われるので、これに対して若干のコメントをしておこう。

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ざらざらした社会に戻れ~『なめらかな社会とその敵』書評(下)

・管理社会と共同体的専制の危険
この点については、他のブログでの指摘もあるのでここでは簡単に済ませよう。
鈴木氏の提唱する社会は明白に管理社会である。少なくともPICSYが機能するためには、人々の経済活動の履歴をかなりの長期間分保存しておかなければならない。こうした問題は現代社会でもすでに「監視カメラの録画保存問題」などで発生している。しかし、これらの問題と決定的に違うのは、監視カメラの映像は、2週間程度の経過の後に消去されることになっているのに対し、PICSYの場合はそれが機能するためには記録は半永久的に保存され続けなければならないという点である。また、PICSYの世界に入らないとそもそも経済活動に参与できず、実質このシステムから離脱できない(筆者は離脱の自由は認めると言っているが、それは現行社会において貨幣を使わない自由を認めるのとあまり変わりないものであろう)。この点は、同じく消費者のデータ管理を行っているAmazon等とも異なる点であり、不満があればAmazonを使わないという選択肢が取れるのとは幾分も異なっている。
「別に経済活動の記録が残っていてもいいじゃないか」というかもしれない。しかし、このように言ってしまうのは、経済活動の匿名性の欠如が自由市場の重要な利点を損なわせているという事実に気付いていないことを露呈させている。例えば自由市場の熱烈な擁護者の一人であるM.フリードマンは、『資本主義と自由』の第一章において、自由市場の利点として「人々の活動を偏見や不当な差別から守ること」を挙げている。具体例として取り上げるのが、アカ狩り時代にブラックリスト入りして表で働けなくなった映画監督たちが、裏でこっそりと映画を作り続け、それを発表出来たという事実である。アカだとして不当に虐げられていた監督の作品であっても、そういう「監督の属性」ではなく純粋に「映画の内容」で判断し、それがよいものであれば何らかの形で市場に出すようにする、それが市場の力であり、人々の自由を守るように働く。もちろん常にこのようにうまくいくわけではないが、このような自由市場の機能もあるのであり、そしてこれが機能するのはその匿名性ゆえだというのは留意されねばならない。別の例としては「バイアティカル証券」を挙げることができる(R・ラジャン、L・ジンカレス『セイヴィング・キャピタリズム』p69~70)。これは資産をあまり持たず、かつ余命の短い人が、自分の数少ない財産として生命保険の受取を証券として取引し、それによって余命を充実したものにするための資金を得るというものである。これも、もし生命保険の主を知っている場合には、その道徳的な引っかかり等も相まって、win-winであるにもかかわらず思うように取引は進まないであろう。この取引を円滑にするのには市場の匿名性が役に立っている。

 

(なお脱線だが、市場の取引がすべて把握可能であるという発想は、先進国の状況しか見ていない論である。世の中には表に挙がって着てさえいない経済活動というものも多く、世界全体でみると、アンダーグラウンドの取引の方が多いという指摘さえある。また、アンダーグラウンドでなくても、片田舎で携帯電話すらきちんと使えるか怪しい地域もまだまだ多数存在するし、そうしたところでの売買を筆者はどう思っているのだろうか。そもそも、電気がないと原理的に物が買えない社会設計とは一体どういうことなのだろうか。)

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ざらざらした社会に戻れ~『なめらかな社会とその敵』書評(上)

鈴木健『なめらかな社会とその敵』が話題のようである。書評も好意的なものが非常に多い。そういうわけで本書を読んでみることにした。

 

本書の内容を端的にまとめると、近代において人工的に構築された「境界」の存在を批判し、それに対してインターネット網と強力なコンピュータを背景にした伝播的システムを対峙させるものである。さまざまな制度が問題に突き当たり、社会に閉塞感が漂う中で、ウェブを全面的に生かした斬新な社会像の提供ということで、本書の筆致の上手さも相まって世間においては本書の評価が高いのであろう。

 

だが、本書において提供される社会像のほとんどに、私は賛成しかねる。本書の抱える問題点として、大きく分けて三つの点を指摘したい。

 

・虚構と社会的実在
・管理社会と共同体的専制の危険
・社会の複雑性に対する認識

 

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ネット選挙解禁の可能性~90年代選挙制度改革の歴史との比較

最近、ネット選挙解禁に向けた運動が盛んである。ONE VOICE CAMPAIGNという運動が盛んであり、集会はニュースでも取り上げられている(「ネット選挙運動解禁への課題は“国民の無関心”?――与野党議員と津田大介さんら議論」)。
もちろんネット選挙に対しては、その効果は思ったよりも大きくないという指摘も存在する(「インターネットが政治的関心を高めない理由」)。しかし、ここではネット選挙の賛否は一旦脇に置いて、ネット選挙が実際の政治において、実現しうるか、あるいは実現するとしたらどういう状況で実現するか、ということを考察したい。この考察はかなりドライなものではあるが、しかし実際にネット選挙を解禁させようとする運動が、その戦略を考える上で意味のあるものでもあるだろう。

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ネット・メディア・非日常性

ネット社会の今日においては、「ニュースは新聞なんかよりネットの方がはるかに信用できる」等々の発言がなされることも多い。確かにもはやネットのどこにも載っていない情報というのは皆無に等しくなりつつあるし、情報の新しさや量という意味ではネットは既存のメディアをはるかに凌駕しているのは論を俟たない。
だが、そもそも「新聞」と「ネット」という比較自体、異なるカテゴリーのものを比較してしまっている。ネットというのは新聞とは違いメディア(媒体)ではなく、一つの「場」だと捉えた方がいいからだ。「ネットのどこかにその情報が落ちている」というのは「町のどこかには欲しいものが落ちている」というようなものであり、それと情報を限定している新聞とを比較するのはそもそも間違っている。新聞やテレビがメディア(媒体)として機能するのは、そこにおいて情報の取捨選択が行われ厳選されたもののみが伝達されるからであり、あらゆる情報が無差別にアップされていくネットは、その意味で情報の取捨選択前のデータ群の山に向き合わされるようなものである。

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3×5と5×3を小学校教育で分けることについて(追記)

先日の記事、「3×5と5×3を小学校教育で分けることついて」に@t_udaさんから鋭い指摘をいただいたのでそれに絡めて追記

結論に至る重要な部分の数学的記述が不正確なように思われるので突っ込ませて下さい。

> "一般に「pをq回足すこと」と「qをp回足すこと」が同一の結果となることは、積の可換性、p×q=q×pを用いなければ示すことはできない。"

これは嘘ですね。抽象的な代数として「pをq回足したもの」を p×q の定義とするならば、×の可換性は示せます。もっとも、帰納的な「証明」(と自然数の加法の定義)が必要なので、結局小学校レベルの算数を逸脱してしまいますが。

もともとの私の書き方自体が不正確であったのもあるが、このコメントは帰納的な方法による可換性を示す方法の可能性に言及したものと理解できる。実際こうした帰納的方法は先日の記事を書いた段階ではあまり考えていなかったので、この点について突っ込んで考えてみる。

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3×5と5×3を小学校教育で分けることについて

Twitterで話題となっていた「かけ算の5×3と3×5って違うの?」という議論がある。発端はこの日記らしく、ここではかけ算の順番の意味として「かける数」と「かけられる数」の意味的な差異を中心として論じている。これについては考え方の押し付けである、子供の芽をつぶす等さまざまな議論がなされたが、論点の食い違いや主観的議論のためになかなか噛み合っていないように見受けられた。そこで、かけ算の順序の区別が指示可能であるとしたら、クリアしなければいけないポイントを絞ると

1:(小学校レベルで出現する範囲の問題での)数学的体系としての妥当性
2:掛け算を教える教育手法としての妥当性

の二点が論点になると考えられる。ただ、2については個人差も大きく、論者の主観によるところも多くなるのでこの部分は最低限に絞り、主に1について論ずることとする。

まず、「かけ算の順序を区別すべきでない」とする側の論として、演算としては5×3と3×5は等しいという点を挙げる人が多いように見えたが、これは外延と内包の混同であると思われる。外延と内包を区別しないと議論が混乱するので、ここで一度整理しておこう。
「外延」というのは、そこで指示されたカテゴリに具体的に何が属するか、という、いわば結果を問題とした視点である。他方、「内包」というのは、指示の具体的な意味に着目した視点である。例えば、地球上の生物で、腎臓を持つ生物はすべて心臓を持ち、またその逆も正しかったとしよう。この場合、「腎臓を持つ生物」と「心臓を持つ生物」は、その集合の要素は全く同一である。だが、にもかかわらずこの二つの指し示す意味は異なっている。この場合は、外延は同一だが内包は異なる状況となる。
さて、「5×3」と「3×5」について、その区別を擁護する人々はその内包の差異、すなわち意味の差異を問題にしていた。これに対し「どちらも同じ15だ」という応答は、その外延が等しいことを示しているにすぎないので、この応答は妥当だとは言えない。

では、かけ算の順序の区別は妥当なのだろうか。しかし、そういってよいかどうかは、もう少し考えてみる必要がある。それは、この方法で数学的にきちんとした体系となっているかどうかのチェックである。

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雑感

ブログ等と比較したとき、Twitterのよくない点は、誤った情報がながされているときにそれに対して訂正・反論の情報を確実に流す手段が存在しないこと。誤った情報を流した人をフォローしている人が、自分もまたフォローしている保証はどこにもないのだから、自分が反論をツイートしても見てもらえる保証はない。

というわけで、Twitterでやたら流れてきた科学系の話題2つ。

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エリート校と経済格差

なんか国立大付属小・中・高校が批判されているよう(熟議カケアイ)。
特に私もいたことのある筑波大学付属駒場高等学校(筑駒)は、東大入学者が多かったりでやたら批判にさらされることが多い。

けど、なんかいろいろ誤解したまま批判している人も多いようなので、とりあえずいくつか書いておく。


まず、筑駒はエリート校って言われるけど、とりあえず学内の先生は大学受験に関心をほとんど持ってない。少なくとも、他の公立と比べれば低い。先生は好き勝手なことを教えているだけ、こんなのは国立付属校にいたことのある人ならわかるはず。
じゃあなんで東大合格者が多いって、それは一部は勝手に勉強する人がいるからと、後の大半は塾に行くから。もちろん高校で「知る楽しみ」を教えて、それによって勉強を自発的にするようにするという理想的なフローについては、うちの高校はある程度実現されている気はするが、それは受験教育云々とは程遠いものだろう。

次。筑駒のようなところは実験校として機能しないという批判。これについては、他の公立校で出来ないようなとんでもない授業をする先生がごろごろいるし、すごい教え方をすることもしばしばであるのだから、十分実験校として機能すると思う。
サンプルがエリートに偏っていて平均的でないという意見もあるが、そもそも国は平均的な学生向けの教育法開発しかしてはいけない、という前提に立っている時点でおかしい。勉強が出来る人対象の教育法を考えることは十分意味があるし、そのための実験をすることは意味があるだろう。

また、上のリンクでも言われている
一般の公立校と比べて教育実習生の授業が多いことから、多少の選抜はやむを得ないかもしれません。しかしながら、こんなにも経済的に豊かな家庭に生まれた超優秀児を集める必要があるのでしょうか。
という経済的な問題について。これについてはまったく逆。

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贈与の成立要件

大分前の問題だが鳩山首相の母親からの9億円贈与問題について。
これについて平野浩氏が


鳩山首相の母親からの贈与に疑問。贈与 とは「ただでものをあげること」が常識だが、ところが民法上は「贈与の当事者同士が贈与契約を交わすこと」とあり、要件に該当しな い。http://www.olive-x.com/news_ex/newsdisp.php?m=0&i=12


ツイートしており、このリンク先を見てみると、徳山勝氏が


鳩山首相の故人献金問題。確かに秘書の行ったことは褒められたことではない。だがマスメディアは、首相と母親の間に贈与が成立していない事実を、報道しな かった。

グーグルの検索機能を使って、「贈与・成立要件」と入れると、一発で贈与が成立 していないことが分かる。筆者はLサイドコラムで、贈与が法的に成立していないと指摘したが、この事実をマスメディアは全く報道していない。おそらく首相 は国会答弁で、「贈与の要件を満たしていない。法的に脱税ではない」と言いたかっただろう。
だが、言い訳に聞こえる真実を抑えた。その事実をマス メディアは報道しなかった。

贈与成立の要件など、おそらく9割以上の国民は知らない。同様に、マスメディアの若い記者は不勉強だから知 らないだろう。だが、デスクは知っていたはずだ。彼らは真実を報道することを放棄し、マスメディアの既得権益(クロスオーナーシップや新聞の再販制度)を 守るために、新政権の足を引っ張った。マスメディアは、正当な批判をしたのではない。同じことが、小沢幹事長に対するバッシング報道でも言える。
「政局や批判よりは、政策や真実を報道することだ」oliver!news


と書かれている。

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