教育

朝鮮学校無償化の問題と「教育を受ける権利」の保障

朝鮮学校が高校無償化から外されるという問題が一部で話題のようであり、実際「拉致」だの「反日感情」だのを持ちだしてくるのは全く支持しないし、大臣が一方的に無償化対象に含めるか否かを決められてしまうような制度設計そのものに問題があると思う。しかし、これを「民族・国籍差別」というのはいかがなものだろうか。
そもそも、今回の問題で対象となっているのはあくまでも「学校」であって「人」ではない。国籍が韓国や朝鮮であったとしても、通常の公立高校に行くのならば無償化対象となるし、逆に日本人であっても朝鮮学校に行くとしたら無償化対象には含まれない。なので、ここで問題になっているのは「朝鮮学校という機関が、国が認定し管理している教育機関として認められるか否か」という一点であり、それ以外の部分はあまり関係ない。

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3×5と5×3を小学校教育で分けることについて(追記)

先日の記事、「3×5と5×3を小学校教育で分けることついて」に@t_udaさんから鋭い指摘をいただいたのでそれに絡めて追記

結論に至る重要な部分の数学的記述が不正確なように思われるので突っ込ませて下さい。

> "一般に「pをq回足すこと」と「qをp回足すこと」が同一の結果となることは、積の可換性、p×q=q×pを用いなければ示すことはできない。"

これは嘘ですね。抽象的な代数として「pをq回足したもの」を p×q の定義とするならば、×の可換性は示せます。もっとも、帰納的な「証明」(と自然数の加法の定義)が必要なので、結局小学校レベルの算数を逸脱してしまいますが。

もともとの私の書き方自体が不正確であったのもあるが、このコメントは帰納的な方法による可換性を示す方法の可能性に言及したものと理解できる。実際こうした帰納的方法は先日の記事を書いた段階ではあまり考えていなかったので、この点について突っ込んで考えてみる。

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3×5と5×3を小学校教育で分けることについて

Twitterで話題となっていた「かけ算の5×3と3×5って違うの?」という議論がある。発端はこの日記らしく、ここではかけ算の順番の意味として「かける数」と「かけられる数」の意味的な差異を中心として論じている。これについては考え方の押し付けである、子供の芽をつぶす等さまざまな議論がなされたが、論点の食い違いや主観的議論のためになかなか噛み合っていないように見受けられた。そこで、かけ算の順序の区別が指示可能であるとしたら、クリアしなければいけないポイントを絞ると

1:(小学校レベルで出現する範囲の問題での)数学的体系としての妥当性
2:掛け算を教える教育手法としての妥当性

の二点が論点になると考えられる。ただ、2については個人差も大きく、論者の主観によるところも多くなるのでこの部分は最低限に絞り、主に1について論ずることとする。

まず、「かけ算の順序を区別すべきでない」とする側の論として、演算としては5×3と3×5は等しいという点を挙げる人が多いように見えたが、これは外延と内包の混同であると思われる。外延と内包を区別しないと議論が混乱するので、ここで一度整理しておこう。
「外延」というのは、そこで指示されたカテゴリに具体的に何が属するか、という、いわば結果を問題とした視点である。他方、「内包」というのは、指示の具体的な意味に着目した視点である。例えば、地球上の生物で、腎臓を持つ生物はすべて心臓を持ち、またその逆も正しかったとしよう。この場合、「腎臓を持つ生物」と「心臓を持つ生物」は、その集合の要素は全く同一である。だが、にもかかわらずこの二つの指し示す意味は異なっている。この場合は、外延は同一だが内包は異なる状況となる。
さて、「5×3」と「3×5」について、その区別を擁護する人々はその内包の差異、すなわち意味の差異を問題にしていた。これに対し「どちらも同じ15だ」という応答は、その外延が等しいことを示しているにすぎないので、この応答は妥当だとは言えない。

では、かけ算の順序の区別は妥当なのだろうか。しかし、そういってよいかどうかは、もう少し考えてみる必要がある。それは、この方法で数学的にきちんとした体系となっているかどうかのチェックである。

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エリート校と経済格差

なんか国立大付属小・中・高校が批判されているよう(熟議カケアイ)。
特に私もいたことのある筑波大学付属駒場高等学校(筑駒)は、東大入学者が多かったりでやたら批判にさらされることが多い。

けど、なんかいろいろ誤解したまま批判している人も多いようなので、とりあえずいくつか書いておく。


まず、筑駒はエリート校って言われるけど、とりあえず学内の先生は大学受験に関心をほとんど持ってない。少なくとも、他の公立と比べれば低い。先生は好き勝手なことを教えているだけ、こんなのは国立付属校にいたことのある人ならわかるはず。
じゃあなんで東大合格者が多いって、それは一部は勝手に勉強する人がいるからと、後の大半は塾に行くから。もちろん高校で「知る楽しみ」を教えて、それによって勉強を自発的にするようにするという理想的なフローについては、うちの高校はある程度実現されている気はするが、それは受験教育云々とは程遠いものだろう。

次。筑駒のようなところは実験校として機能しないという批判。これについては、他の公立校で出来ないようなとんでもない授業をする先生がごろごろいるし、すごい教え方をすることもしばしばであるのだから、十分実験校として機能すると思う。
サンプルがエリートに偏っていて平均的でないという意見もあるが、そもそも国は平均的な学生向けの教育法開発しかしてはいけない、という前提に立っている時点でおかしい。勉強が出来る人対象の教育法を考えることは十分意味があるし、そのための実験をすることは意味があるだろう。

また、上のリンクでも言われている
一般の公立校と比べて教育実習生の授業が多いことから、多少の選抜はやむを得ないかもしれません。しかしながら、こんなにも経済的に豊かな家庭に生まれた超優秀児を集める必要があるのでしょうか。
という経済的な問題について。これについてはまったく逆。

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